アナキストの夢

以前、「アナキストの悲劇」(id:yagian:20120520:1337500825)というエントリーを書いた。
そこでは、大杉栄に代表されるアナキストの思想には共感するけれども、組織的・統制的・抑圧的なコミュニストボルシェビキには敗れるように運命づけられている。そんなアナキストが望む世界は、結局ユートピアに過ぎないというところがアナキストの悲劇であり、むしろそれゆえ私はアナキズムアナキストしての大杉栄に共感するということを書いた。

まず、今日のエントリーの前提として、私が考える政治的な立場のマッピングを説明しておきたい。かなり単純化しているし、この二軸以外にも分類軸はあると思うが、とりあえず分かりやすさを優先してこの枠組を使おうと思う。
左と右が、通常「左翼/右翼」と言われている分類。大雑把に言えば、革命的な社会変革を指向するのが左翼で、保守的もしくは漸進的な社会変革を指向するのが右翼だとしておこう(異論がある人がいるかもしれないけれど)。
それとは独立した軸として、統制に重きを置く立場と、統制には反対して徹底した個人主義を主張する立場がある。これは、左翼内、右翼内でもそれぞれ両者の対立がある。
アナキストの悲劇」で書いたけれども、コミュニズムボルシェビキは、階級として一体化した「労働者」が階級として一体的に支配者である「資本家」を打倒するという構想を持っている。資本家階級の打倒のためには、労働者が一体化する必要がある。そのためには、階級意識に目覚めた「前衛(=共産党)」が労働者を指導し、さらには、資本家階級を打倒したあとは、「資本家」に取って代わった「労働者」(実際には、前衛たる共産党)による独裁を目指す。
一方、アナキズムは「前衛(=共産党)」による統制を拒否する。もちろん、アナキズムもすべての秩序を否定する訳ではない。大杉栄が「叛逆の精神」で極めて簡明にアナキズムについて書いているので引用したい。

…自由なる各個人が自由合意によって一団体を形づくり、その自由自治団体がまた自由合意によって相互の連合を諮る社会である。
(p146)

私自身としてはアナキズムの目指す方向には強く共感する。しかし、現実には「個人」は必ずしも「自由意志」や「自由合意」にもとづいて行動するものではないし、それゆえ、アナキストは組織的かつ戦略的なコミュニストボルシェビキに敗れてしまう。そのことを「アナキストの悲劇」と呼んだ。
一方、右翼の側でも同様の対立があり、強力な国家を指向するファシズムは右翼的統制の極であり、その対立項として政府の機能を極限まで削減すべきだとするリバタリアニズムがある。
第二次世界大戦では、たまたまアメリカ、イギリスとソビエト連邦が当面の敵であるナチ・ドイツと戦うために同盟したけれど、世界恐慌以降冷戦終結までの世界の政治的対立は、大きく言えば統制/反統制の軸をめぐった対立だったと考えている。
ファシズムは「反共産党」という意味で「反共」だけれども、統制指向という意味ではコミュニズムと親和性がある。上記の図表でファシズムの訳語として「全体主義」ではなくあえて「国家社会主義」と書いたのは、その関係を明示したかったからだ。
一方、反統制の極であるアナキズムリバタリアニズムには親和性がある。リバタリアンのロバート・ノージックの主著は「アナーキー・国家・ユートピア」である。
私自身がもっとも共感するのは、ハイエクである。彼は、リバタリアンよりはやや上方に位置すると思う。アナキストリバタリアンは、一種の思考実験として極限の自由を想定、主張するが、ハイエクは実際に「自由」が機能する条件について考察しており、ただ単に前提なく「自然状態」で「自由な個人」が「自由自治団体」を構成すると楽天的に考えていない。私はハイエクの反統制の指向とそのリアリズム、プラグマティズムに共感する。
現実の国家に当てはめると、中国はいまや「共産党体制」の維持が自己目的化しており、そのために国家の統制を実施しているから、事実上ファシズム体制だと思う。アメリカは、指向としては反統制、反革命だが、現実の政治、政府としては、リバタリアンハイエクほどは徹底していない。EU諸国、特に、フランスはやや左寄り、かつ、統制と反統制のバランスに対する意識が強いと思う。私自身の認識としては、日本は中国ほどではないけれども、基本的には国家の統制指向が強いという意味でファシズムよりに位置づけた。
アナキズムの立場でスペイン市民戦争に参加したジョージ・オーウェルの「カタロニア讃歌」を読んでいると、アナキズムコミュニズムは一見同じ左翼陣営という意味で同盟しようとしてしまうが(コミュニストはそんなことは百も承知で戦略的に同盟するのだろうけれど)、本質的に相容れないことがよくわかる。
そんなことを考えながら大杉栄を読み、アナキズムには心惹かれるけれど、そんな社会は実現しないのだろうなと考えていた。
しかし、アナキズムが実現している世界が現実に存在していることに気がついた。
エリック・レイモンド「ハッカーになろう」(山形浩生訳)(http://cruel.org/freeware/hacker.html)を読んでいたら次のような文章があった。

ハッカーは問題を解決し、物事を築きます。そして自由と自発的な助け合いを信条としています。ハッカーとして受け入れられるには、こういう姿勢態度を持つようなふるまいが必要です。そしてこの姿勢を持つかのようにふるまうには、本当にその心構えを信じるしかありません。…

ハッカーたちは本来的に反権威主義です。あなたに命令できる人は、何かあなたが興味を持っている問題を解決するのを止めさせてしまえます――しかも、権威主義的な頭の特徴として、そのやめさせる理由もあきれるくらいくだらないものであるのが普通です。だから権威主義的態度に出会ったら、必ず戦わないといけないのです。そうしないとあなたや他のハッカーたちが窒息させられてしまいます。

権威主義者は検閲と秘密が大好きです。さらに自発的な協力や情報共有を信用しません。彼らは自分たちが管理できる「協力」だけを好みます。だから、ハッカーらしく行動するためには、検閲や秘密、そして責任ある大人に無理強いするような圧力やごまかしの使用に対し、本能的に敵意を感じるようにしなくてはなりません。そしてこの信念を実行に移す用意が必要なのです。

これは、まさに大杉栄が考えるアナキズムそのものだと思う。
大杉栄は国家に敗れて殺されたが、ハッカーたちは現実にUNIXを作り上げた。その違いはどこにあるのだろうか。エリック・レイモンドは次のように書いている。

 ハッカーになるには、上記の心構えをある程度身につけなければなりません。しかしスポーツのチャンピオンやロックのスターになろうとしたら、心構えだけではどうしようもないでしょう。同じように、心構えだけでハッカーになれるわけではありません。ハッカーになるには知性、実行力、献身、そして大きな努力が必要です。
 ですから、姿勢や態度は信用せずに、あらゆる技能を尊重することを学びましょう。ハッカーは、ハッカーもどきの相手をして時間を無駄にしたりはしませんが、技能には頭を垂れます。なかでもとりわけハッキング技能を崇拝しますが、その他どんな技能でもいいのです。ごく少数の人しか身につけられない、ハードルの高い技能は特によいもので、精神的な正確さ、技巧、集中力を必要とするハードルの高い技能での技能は最高です。

大杉栄は労働者全体が覚醒し自主管理する世界を目指した。ハッカーも自主管理による世界を指向しているが、それを実現するために参加メンバーに対して高い意識と技能を求めている。一種のエリート主義の香りはするけれど、現実にアナキズム的プロジェクトを成立させるためには、一定水準の技能、意識があるメンバーが集まることが必要なのだろう。
ハッカーの世界で、すべてのプロジェクトが成功している訳ではない。アナキズム的プロジェクトを成功させるための難易度は非常に高く、リーダーに恵まれて高い水準の多くのメンバーが集結したUNIXプロジェクトはきわめて例外的なのだろう。しかし、アナキズム的プロジェクトは、統制的なプロジェクトに比べると、はるかに創造的になる潜在的な可能性を秘めている。
大規模なアナキズム的プロジェクトの成功は困難だが、小さな規模で創造的なアナキズム的プロジェクトは組織しうるのではないかという希望を持っている。システム開発におけるウォーターフォールアジャイルの対比は、統制と反統制の関係にあると思う。私は、中央集権的な統制
による(実際はその統制も難しかったりするのだが)ウォーターフォール(≒ファシズム)よりも、個人の自立と創造性に基礎をおくアジャイル(≒アナキズム)に心を惹かれるし、可能性を感じている。
アナキストの夢が実現されている場がここにあるのだと思う。

叛逆の精神―大杉栄評論集 (平凡社ライブラリー)

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アナーキー・国家・ユートピア―国家の正当性とその限界

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