Fukushima 50と非国民

福島第一原子力発電所の事故の直後、アメリカでは発電所の事故拡大を防ぐために発電所にとどまった東京電力の職員たちをFukushima 50と呼び、その英雄的な行動を報道していたという(http://goo.gl/6xP3e)。
なぜFukushima 50がアメリカで報道された理由について「アメリカンヒーロー」という文脈で、英語版ウェブログに書いた。"American Heroes and Godzilla"(http://goo.gl/Zy4Af)この日本語版ウェブログでは、逆にFukushima 50が日本で報道されない理由について書こうと思う。
先日、こんなニュースがあった。
「政府が主催する将来のエネルギー政策に関する意見聴取会で電力会社社員が原発推進の意見を述べた問題で、政府は17日、電力会社や関連会社の社員による意見表明を認めない方針を決めた。」(http://goo.gl/hSSnF)
私はほんとうにおかしいと思う。たしかに、九州電力をはじめとして世論を誘導しようとする事件があった。しかし、政府は意見を表明する人の選び方の公正さを確認して、そのことを公表すればよかったはずだ。エネルギー政策に関する意見として、当事者である電力会社の社員の意見はむしろ重要で、自分としてはぜひその意見を聞いてみたいと思う。
その電力会社の意見の公表を認めないということは、電力会社の社員は権利を奪うべき「非国民」なのだろうか。これこそが「非国民」が作られるプロセスだと思う。恣意的に「非国民」を排除するような選定方法には大いに「疑念」を感じる。
日本でFukushima 50が取り上げられない主な理由は、この「非国民」排除の構造だと思う。東京電力の職員がいまの日本では「ヒーロー」になることは許されないということだ。
恐ろしいことだと思う。