捕鯨の是非について

昨日のエントリー(「捕鯨、漂流、近代世界システム」id:yagian:20130104:1357304798)で捕鯨について触れたので、私が現代の捕鯨の是非についてどのように考えているか書いておこうと思う。
すでに国際的なコンセンサスができていることは、持続可能ではない、つまり、特定の種を絶滅に追い込む可能性がある捕鯨(に限らず狩猟型のすべての産業において)は許されないということだろう。このため、IWCでは捕鯨の対象となる鯨の資源量や資源管理の方法について議論されている。
捕鯨推進派からは、捕鯨反対派が、鯨の科学的な資源量の問題を踏み越えて、鯨には本質的に捕鯨の対象とすべきではない価値が備わっているという主張をしているように見える。本質的な意味で鯨を捕鯨の対象とすべきかという問題は、価値観の問題であり、究極的には合意が困難だと思う。このため、捕鯨反対派も捕鯨推進派と議論する時には、鯨の資源量の推計という科学的な問題や食料として見た時の鯨やイルカの水銀汚染の問題にすり替えて捕鯨反対の議論をしているように見える。
また、現在、商業捕鯨はモラトリアムされているが、イヌイットなどによる伝統的な捕鯨は認められている。これは、一般的に伝統的な捕鯨は特定の種を絶滅に追い込む可能性があるほどの規模ではないということも背景にあるのだろう。
さて、私は日本の捕鯨の是非についてどのように考えているか説明したい。
鯨が本質的に捕鯨の対象とすべきではない、という立場には与さない。理由は前述の通りで、多様な価値観を超えて特定の種の狩猟の是非について合意することは困難だと考えるからである。個人的には、他のさまざまな種を対象とする狩猟、漁業に比べて「捕鯨」自体を特に禁じる理由はないと思っている。だから、日本の捕鯨も持続可能で資源管理が確立しているならば禁止すべきではない、というのが私の立場である。
しかし、一方で、捕鯨を日本政府が支援する理由も特にないと考えている。
現在特に問題になっている南氷洋での捕鯨は、純然たる商業捕鯨であって、日本の伝統的な捕鯨との関連はまったくないとは言えないけれど、きわめて乏しいのが事実である。したがって、特に政府が支援する理由はなく、民間事業として成立しうるかという問題だと考えている。絶滅の恐れがないことを立証し、資源管理を行うことは、基本的には事業者の責任として行うべきことで、その費用の負担も捕鯨事業者が担うべきだ。つまり、現在の調査捕鯨の費用は日本政府が負担すべきではないということだ。もし、そのコストを加えると民間事業として成立しないのであれば、南氷洋捕鯨事業は自然消滅するし、それをカバーする収益が得られるのであれば事業は継続する、それ以上でも以下でもないと思う。日本政府は南氷洋捕鯨事業に対して中立の立場で、適切な資源管理が行われているか監視する立場になるべきだと思う。
日本のなかに「伝統捕鯨」の文脈で捕鯨を擁護する人たちがいるけれど、少なくとも南氷洋での商業捕鯨と、沿岸での小規模な捕鯨は明確に区分すべきだと思う。後者もどこまで「伝統捕鯨」と見るべきか、という点には議論の余地はあるけれど、少なくとも前者は「伝統捕鯨」という枠内で語ることはできない。
「ザ・コーブ」で描かれた大地町のイルカ漁は、その詳細について知っている訳ではないけれど、恐らく「伝統捕鯨」のなかに入ることがらであって、あれに反対するのであればイヌイット捕鯨にも反対しなければ筋が通らないと思う。
水産庁捕鯨を取り巻く状況」(http://www.jfa.maff.go.jp/j/whale/w_thinking/index.html)に示されている内容は概ね説得的だと思う。基本的な考え方として次のように書かれている。

我が国は、以下の基本認識の下、商業捕鯨の再開を目指しています。
( 1 )鯨類資源は重要な食料資源であり、他の生物資源と同様、最良の科学事実に基づいて、持続的に利用されるべきである。
( 2 )食習慣・食文化はそれぞれの地域におかれた環境により歴史的に形成されてきたものであり、相互の理解精神が必要である。

ただし、「鯨類資源は重要な食料資源」とまで言えるか、また、日本の「食習慣・食文化」として鯨食がどこまで定着しているかについては疑問がある。また、私見では日本政府は商業捕鯨に対して中立であるべきと考えているが、水産庁商業捕鯨再開に向けて支援している理由は説明されていない。
一方、Sea Shepardはウェブサイト(http://www.seashepherd.org/whales/whaling-around-the-world.html)に次のように書いている。

Sea Shepherd Conservation Society is opposed in principle to all whaling by any people, anywhere for any reason.

このように言い切ってしまうと、異なる価値観を持っている人たちとの対話の可能性すら見出すことができなくなる。この立場に与することはできない。