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オリンピックとレスリング

雑感 時事

レスリングがオリンピック競技から外れる可能性が高まったということで連日ニュースに取り上げられている。私自身あまりオリンピックには興味がないというバイアスがあるけれど、オリンピック競技であることにこだわり過ぎるのもよくないのではないかと思う。
確かに、普段はテレビで中継されることもない競技が、オリンピック競技に選ばれることで国際的に中継され、メダルを取ることで大きく報道されるということの効果は、その競技のトップアスリートにとって大きいのだろうと思う。また、レスリングは伝統的なオリンピック競技でもあり、そのことが当然のこととされていただけに、外されるということに対する抵抗感は強いと思う。
現代のオリンピックは一つの巨大な興行となっている。各競技に対して勧進元であるIOCからは視聴率が取れるように「見栄えのよい」ルールにするように要請されている。しかし、それがその競技としてよいことかどうかは、また別問題だろう。
おそらく、レスリングは見られることより参加することを主体とする競技だったのだろう。IOCからは「地味な」グレコローマン・スタイルをやめるようにとの提案があり、レスリング側はそれを拒絶したという。そのことが、レスリングがオリンピック競技から外される伏線となったという。そして、現在、レスリング側はオリンピック競技にとどまるために、グレコローマン・スタイルのルールの改正を検討しているという。
しかし、グレコローマン・スタイルを維持することと、オリンピック競技に残ることを冷静に比較したほうがよいのではないだろうか。レスリングの競技者の圧倒的多数はオリンピックを目指している訳ではなく、一競技者としてレスリングをしているはずだ。そして、グレコローマン・スタイルレスリングはそれ相応の歴史があり現在のルールに落ち着いているはずで、そのルールは競技者にとっては一定の合理性があるのだろう。それをオリンピックという興行のなかで視聴率を取るという目的で安易に変更してしまってよいのだろうか。
もし、レスリングがオリンピック競技に残ることを至上命題にしてしまうと、これからもレスリングは勧進元としてのIOCに今後も翻弄され続けることになるだろう。それが競技としてのレスリングとして望ましいことなのだろうか。
確かに、一部のトップアスリートにとってはオリンピックに出場することがレスリングを続ける動機の大きな部分を占めているのだろう。しかし、それが健全なことなのだろうか。外から与えられる条件を動機としていると、そのことに左右されて自立することができない。自分のなかから湧いてくる動機で行動したほうがよい。おそらく、レスリングに取り組んでいる競技者の大部分は内的な動機でレスリングに取り組んでおり、それはそれで健全なことだと思う。
オリンピックに依存すればするほど、レスリングという競技が外部の条件に左右されることになる。それよりは、レスリングという競技を、オリンピック競技でなくともすばらしいスポーツとして自立することを目指したほうがはるかによいのではないだろうか。