岡野友彦「院政とは何だったか」

岡野友彦「院政とは何だったか」を読んだ。
院政とは何だったかよく理解できずにいたので、題名に惹かれて手にとって見た。歴史学の最先端では異論もあるようだけれども、中世日本の権力構造の中での院政の位置づけについて概括的に把握できたように思う。
院政が成立する以前、律令制に基づく古代日本の王権があった。東アジアで唐が膨張した結果、朝鮮半島で日本と百済の連合軍は唐と新羅の連合軍と戦うことになった。この戦いに敗れた古代日本の王権が、その地位を守るために唐の律令制を取り入れ、国家の体制を強化した。しかし、907年に唐が滅亡すると、律令制を取り入れ唐の冊封を受けていた周辺諸国にも影響を与え、王朝の交代が進み律令制に基づかない国々が成立した。日本は、遣唐使を廃止するなど唐との国交を廃止していたこともあり王朝の交代は起きなかったが、律令体制は変質していった。
日本における律令制は、国家機能の様々な機能を特定の「家」が家産、家業として請け負いその権利が世襲される官司請負制に変質した。それと並行して、律令国家が徴税して配分していた税が、それぞれの家業を請け負う「家」が直接徴収するようになった。岡野友彦は、この税の流れが変わったことが荘園制の本質だと指摘する。そして、荘園制の最上位に位置するのが権門盛家と呼び、天皇家摂関家、寺社権門、そして、武家権門としての幕府、得宗家があった。
それぞれの権門盛家の権力の源泉は家領荘園にあった。このため、律令的な役職に就いていることではなく、権門盛家の家長として家領荘園を所有していることである。摂関家得宗家で権力を持つことは、現役の摂政であったり執権であることではなく、摂関家得宗家の家長であることである。これと同様に上皇が権力を持っていたのは、また、権力を持っている上皇は、天皇家の家長として天皇家の家領荘園を所有していた。天皇家の特殊性があり、天皇その人は律令的な建前として公地公民制のトップであるため家領としての荘園を所有することはできなかった。このため、天皇家の家長となるためには天皇をやめて上皇となる必要があり、この天皇家の家長としての上皇治天の君と呼ばれていた。ただし、天皇家の出身であっても治天の君となるには天皇を経験することが必要とされていた。
ここに書いたのはかなり単純化されたイメージであり、実際は家領荘園のすべてが家長たる治天の君に集中していたとは限らない(興味深いのは家領荘園は内親王天皇の娘)に相続されていたこともあった)し、足利義満天皇家の出身ではなかったが事実上の治天の君を目指し、部分的には実現していたなどの指摘もある。
日本の中世に対する古典的なイメージだと、律令制に基づいた天皇、公家を中心とした国家が武家によって打倒された、ということになる。その観点からすれば、なぜ、天皇家摂関家が中世の間継続できたのか大きな疑問になる。岡野友彦の説明によれば、中世の本質は荘園制にあり、天皇家摂関家、寺社権門、武家権門がそれぞれ勢力争いはしつつも並列して存在していたという。だから、幕府が天皇家や公家に取って代わった訳ではないから、院政の中心であった天皇家が継続したことに何の疑問もない。
応仁の大乱以後、武士の勃興によって実力によって荘園制が有名無実のものとなり、これに伴って院政も終了した。これによって日本の中世が終わる。
このあと、戦国時代、ポルトガルの来航と鉄砲の伝来を経て、日本の再統一に向けて進んでいく。柳田国男が指摘しているが、現代の日本がイメージする「伝統的な日本」は戦国時代以降成立したもので、中世以前の日本に対してはむしろ異国情緒が感じられる。
捕鯨、漂流、近代世界システム」(id:yagian:20130104)へ続く。

院政とは何だったか (PHP新書)

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