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陰謀論者とBuddha

昨日のentry「WTO脱退論?」(id:yagian:20130427:1367007188)で「アメリカ陰謀論者」について触れた。今日は、陰謀論とはなにか考えてみようと思う。
陰謀論」には事実の裏付けはなく、それを信じていない人から見ると荒唐無稽に見えることが多い。「陰謀論者」に「陰謀論」の矛盾を指摘しても、確信がゆるぐことはない。なぜだろうか。
陰謀論者に限らず、誰でもこの世界は不条理に満ちていると感じることは多いだろう。論理的には自分は不条理に恵まれていると感じることもありうるが、実際には不条理に不幸だ、虐げられていると感じることが多いだろう。人間は自分のことを客観視することが難しいから、不条理に得た幸福は往々にして自分の力で手に入れたと思いがちであり、不条理な不幸に関心が向きがちである。
そして、自分の不条理な不幸に対して、何らかの説明を求める心理がある。おそらく、事実としては、その不幸の原因は単なる偶然の集積だったり、人間には理解できないほど複雑な構造をしているのだろうが、そのような説明では納得できない。その時に、手近な「陰謀論」に飛びついてしまう。
Buddhaは「生きること」は本質的に「苦」そのものだ、と指摘している。また、世界には永久不滅なものはなく、すべては移りゆくといっている。そして、人生や世界の真のありようを深く理解することで「苦」から解脱することができると言っている。私は、Buddhaの言っていることは事実だと思うが、自分のように弱い人間にとってそれを受け入れ、深く理解することは難しいと思っている。「陰謀論者」のように安直な説明を、安直がゆえに受け入れてしまう人たちを見るにつけ、Buddhaが示した事実は世の中には広まって行かないとの思いが深まる。
Nietzscheがressentimentという概念でChristianityを批判しているが「陰謀論」を考える際に参考になる。事実として、世界は不条理に満ちているし、私やあなたの不幸には特定の原因はなかったり、原因が特定できないことが多い。そうだとしたら、その不幸をただ単に受け入れるしかない。しかし、Christianityでは、最後の審判という神話があり、不条理に見える不幸が世界の終わりに精算されると言う。Buddhaが事実を指摘していると考える私の立場からは、この神話はressentimentを晴らすための一種の「陰謀論」に見える。正直に言って、Christianityの伝統とはかけ離れた環境に生まれ育った私にとって、Bibleは荒唐無稽な神話に満ちているように見える。しかし、Buddhaの示した事実を受け入れることができるのは、Nietzscheが言うsupermanだけかもしれない。
仏教、特に大乗仏教はBuddhaの教えからの堕落の歴史であり、オウム真理教はその行き着く先だったと考えている。Buddhaが示した事実は、普通の人に受け入れることは難しい。そのため、originalの教えから逸脱した「安直」な教えが広まっていった。
Buddhaは、自らが世界を正しく理解することだけが苦から解脱する方法だと言っている。それを素直に受け止めれば、他の人を救うことなどできないということがわかる。しかし、「大乗仏教」は他の人を救うことができるから、Theravadaを「小乗仏教」と呼び、自らのほうが優れていると主張する。思い上がりも甚だしいのではないだろうか。
オウム真理教では、解脱できない人を「ポア」をすることは、むしろその人にとってよいことだと主張する。たしかに、普通の「大乗仏教」は「ポア」のような主張はしないけれど、「大乗」に潜む逸脱を極限まで進めるとオウム真理教の「ポア」の論理に至る。
太平洋戦争の「特攻隊」の死も基本的には不条理なものだと思う。当時の日本軍のgrotesqueな「空気」が生み出したものであり、戦況を改善するためにはほとんど役に立っていない。「特攻隊」の犠牲者は哀れだと思う。哀れだと思うからこそ、安易に美化してはいけないし、その不条理さやgrotesqueさを事実としてそのままの形で受け止めるべきだと思う。同様にsuicide attackを使嗾するterroristの幹部は本当にgrotesqueで、日本軍の「空気」と同様に許しがたいと思う。
事実から目を背け「安直」な説明を受け入れるという意味では、「最後の審判」も「ポア」も「異教徒に対するジハード」も「陰謀論」である。
Buddhaのように事実を直視するのは難しい。「陰謀論」の誘惑はどこにでもあるし、私自身も知らずに嵌っているかもしれない。しかし、常に「陰謀論」を相対化する努力は続けたいと思う。