真善美:芥川龍之介と菊池寛と私(2)

前回の記事(id:yagian:20131208:1386450690)では、もともとは好きではなかった菊池寛恩讐の彼方に」を久しぶりに読んだら、不覚にも感動してしまったことを書いた。
青空文庫に、芥川龍之介菊池寛の作品を、また、菊池寛芥川龍之介の作品を批評している文章があり、それには二人の文学、小説に対する考え方が非常によく表れていて興味深い。
まず、芥川龍之介の「「菊池寛全集」の序」に書かれた文章から紹介したい。

…一つ一つの作品に渾成の趣を与えなかった、或は与える才能に乏しかった…この意味では菊池寛も…必ずしも卓越した芸術家ではない。

…純粋な芸術的感銘以外に作者の人生観なり、世界観なり兎に角思想を吐露するのに、急であると云う意味であろう。この限りでは菊池寛も…謂うところの生一本の芸術家ではない。…

…彼の作品…の背後に、意味の深い、興味のある特色を指摘したい。…それは道徳的意識に根ざした、何物をも容赦しないリアリズムである。

…こう云った彼の風貌を未だにはっきりと覚えている。「そりゃ君、善は美よりも重大だね。僕には何と云っても重大だね。」

若いころ「恩讐の彼方に」を読んだ時につまらないと思ったのは、菊池寛の「道徳」が押し付けがましいと感じたからだろう。今読み返しても、はじめにテーマがあって、それに当て込むようにストーリーが作られていると思った。その意味では、「純粋な芸術的感銘」を受ける作品ではない。しかし、今回は、菊池寛が表現したいと思った「善」のありように共感したのである。
一方、菊池寛芥川龍之介の死後に書いた「芥川の事ども」に次のように書いている。

 作家としての彼が、文学史的にいかなる位置を占めるかは、公平なる第三者の判断に委すとして、僕などでも次のことは言えると思う。彼ごとき高い教養と秀れた趣味と、和漢洋の学問を備えた作家は、今後絶無であろう。古き和漢の伝統および趣味と欧州の学問趣味とを一身に備えた意味において、過渡期の日本における代表的な作家だろう。我々の次の時代においては、和漢の正統な伝統と趣味が文芸に現れることなどは絶無であろうから。

実に鋭い指摘だと思う。これは、芥川龍之介への批評にとどまらず、日本近代文学全体の批評になっていると思う。世界の文学を俯瞰した視点から日本近代文学を眺めた時に、いちばんおいしいのは、やはり、鴎外、漱石、谷崎、芥川といった「和漢洋」の学問がほんとうの意味で身についた人たちの作品だと思う。日本近代文学そのものが「過渡期」の文学であり、芥川龍之介はそれを代表する作家なのだろう。
菊池寛が文芸によって彼にとっての「善」を表現する作家であったとすると、芥川龍之介は伝統、趣味、学問に立脚して「美」を表現する作家であった。
菊池寛はおなじ「芥川の事ども」で次のように書いている。

 芥川と、僕とは、趣味や性質も正反対で、また僕は芥川の趣味などに義理にも共鳴したような顔もせず、自分のやることで芥川の気に入らぬこともたくさんあっただろうが、しかし十年間一度も感情の阻隔を来したことはなかった。

また、これは芥川龍之介のことについて書いた文章ではないが、「小説家たらんとする青年に与う」には次のように書いている。

 僕は先ず、「二十五歳未満の者、小説を書くべからず」という規則を拵えたい。…

 とにかく、小説を書くには、文章だとか、技巧だとか、そんなものよりも、ある程度に、生活を知るということと、ある程度に、人生に対する考え、いわゆる人生観というべきものを、きちんと持つということが必要である。

…本当の小説家になるのに、一番困る人は、二十二三歳で、相当にうまい短篇が書ける人だ。だから、小説家たらんとする者は、そういうようなちょっとした文芸上の遊戯に耽ることをよして、専心に、人生に対する修行を励むべきではないか。

菊池寛がどの程度意識して書いたのかわからないけれど、まるで芥川龍之介を全否定しているような文章である。彼は、芥川龍之介の作品の価値は認めていたのだろうけれど、好んでいなかったのは明らかである。
私自身、菊池寛の作品よりは芥川龍之介の作品の方が好きなのだが、菊池寛の批判にはある程度同意せざるを得ない。
羅生門」や「枯野抄」といった作品では、日本の古典や伝統的な世界を場面に取り、西洋近代的な心理解剖をしている。きわめて技巧的な小説で、まさに「和漢洋」の学問があってはじめて書くことのできる作品である。心理解剖には納得はできるものの、しかし同時に、どこか底の浅い、いかにも「書斎で考えて作った」ような小説という印象も与える。菊池寛芥川龍之介の作品のそういったところにあきたらなかったのだろうと思う。
しかし、趣味や性質が正反対だった菊池寛芥川龍之介が、むしろ、正反対であったからこそ友人であり続けたということが美しいと思う。
菊池寛は真善美のなかで「善」を取った。芥川龍之介は「美」を取っている。私が菊池寛の小説も芥川龍之介の小説もどこか飽きたらなく思ってしまうのは、私自身は「真」を求めているからだろうと思う。
もちろん、このまとめは図式的なものであって、菊池寛の小説にも「真」や「美」はあり、芥川龍之介の小説にも「善」や「真」はある。
菊池寛が道徳を「お説教」ではなく「小説」という形態で表現したのは、「真に迫る」形で表現したかったからに違いなく、今回私が共感したのも「恩讐の彼方に」という小説の表現に「リアルさ」を感じたからである。また、芥川龍之介の晩年の小説「歯車」などには、初期の底の浅さはなく、「美」を追求するよりも「真に迫る」ものが感じられる。
また、私も若い頃は通俗的な道徳を毛嫌いしていたが、歳をとるにつれて「真」だけでは生きていくのが苦しくなるということも感じるようになってきた。かつては「真」に向かって尖っていた自分自身が、どんどん鈍くなり「真善美」への指向が渾沌とするようになってきた。芥川龍之介は尖ったまま死んでしまったけれど、自分はこうやって生き延びていくのだと思ったりもする。

恩讐の彼方に・忠直卿行状記 他八篇 (岩波文庫)

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