「善き市民」の哲学:Michael Sandel「公共哲学」

Michael Sandel「公共哲学」を読んだ。
これまでも「リベラリズムと正義の限界」を含め彼の本は何冊か読んでいたのだが、彼の主張が腑に落ちなかった。この本は、Michael Sandelの時事的な論説が集められており、体系的な著作よりもむしろどのような文脈、背景で彼の主張がなされているのか理解できた。
Sandelは、Kant-Rawls的な主流派のliberalismを批判している。「公共哲学」のなかでKant-Rawls的liberalismを次のように要約している。

 われわれの生活を律する公共哲学の中心思想は、自由とはみずからの目的を選ぶ能力にあるというものだ。政治が国民の人格を形成したり、美徳を涵養したりしようとするのは間違っている。そんなことをすれば、「道徳を法制化する」ことになりかねないからだ。政府は、政策や法律を通じて、善き生に関する特定の考えを支持してはならない。そうではなく、中立的な権利の枠組みを定め、その内部で人びとが自分自身の価値観や目的を選べるようにすべきなのだ。

 …この数十年で、アメリカ政治の市民的あるいは形成的な側面は、手続き的共和国に取って代わられた。手続き的共和国とは、美徳を育むことよりも、人がみずからの価値観を選べるようにすることに心を砕くものだ。

おそらく、現代において「自由主義」を信奉していれば、右翼であっても左翼であっても、政府に対してはこのような考え方が一般的だと思う。私もこの主張に同意する。現在の国家は多かれ少なかれ多元的であることを前提にする必要があるし、そのなかで個人の自由を確保しようとすると、国家が「善き生に関する特定の考えを支持してはならない」のは当然と思える。Rawlsの「無知のヴェール」論は、acrobaticでありfictionalだと感じるけれど、多元的な社会のなかでの「自由」を基礎づけようとするとああいった論理展開にならざるをえないのだろうと納得する。
Michael Sandelは、この価値中立的な「手続き的共和国」を二つの観点から批判する。
一つ目は「無知のヴェール」が価値中立的な前提から導き出されるように見えても、特定の価値判断を前提としているということ。二つ目は、道徳的な観点からの判断を避けることができないことがらが存在しているということである。
一つ目の批判については、批判そのものは正鵠を射ているかもしれないけれど、Michael SandelはRawlsの「無知のヴェール」に代わりうるliberalismの論理的基礎を提示している訳ではない。私も「無知のヴェール」論は無理をしていると思うけれど、他に「自由主義」を基礎づける有力な説がない以上、まずはこれを議論の出発点にせざるを得ないと考えている。
二つ目の批判のために、奴隷制の問題を例にあげている。

 意見の分かれる道徳問題をカッコに入れようとする正義の政治的高層に困難が伴うことの二つ目の例は、1858年にエイブラハム・リンカーンとスティーブン・ダグラスのあいだでかわされた論争である。住民主権の教説を援護するダグラスの議論は、意見の分かれる道徳問題を政治的合意のためにカッコに入れることを主張した、アメリカ史上最も有名な例かもしれない。ダグラスによれば、奴隷制の道徳性について見解が一致しないのは避けられないから、国策においてはこの問題に対して中立を守るべきだという。彼が援護した住民主権の教説は、奴隷制の是非を判断せず、各準州の住民に自由な判断に任せるというものだった。「連邦の権力という重しを、自由国家か奴隷制国家かの秤に載せることは」合衆国憲法の基本原理に反し、内戦の危機を招くだろう。国を一つにまとめる唯一の希望は、見解の相違を認め合い、奴隷制をめぐる道徳論争をカッコに入れ、「こうした問題についてみずから決定を下す各州・準州の権利」を尊重することだと、ダグラスは説いた。

それでは、自由を守りつつ、多元的な価値観、道徳観を集約する方法があるがあるのだろうか。
Michael Sandelも単純にそれを実現する方法があるとは言っていない。しかし、公共の場における議論と熟慮が重要だと指摘する。

 …相互尊重をめぐる別の考え方―熟議型の考え方―によれば、われわれは道徳や宗教をめぐる同胞市民の信念を尊重すべく、それらに関与あるいは留意する―ときには批判して異議を唱え、ときには耳を傾けてそこから学ぶのである。それらの信念が重要な政治問題にかかわる場合はなおさらだ。熟議型の相互尊重を通じて、何らかの事例で合意が生まれるかどうか、それどころか道徳や宗教をめぐる他者の信念が評価されるのかどうかさえ、保証のかぎりではない。道徳・宗教上の教説について知れば知るほど、それが嫌いになる可能性はつねに存在する。だが、熟議や関与を通じた相互尊重は、リベラリズムが認めるものよりふところの広い公共的理性を提供してくれる。それはまた、多元的社会によりふさわしい理想でもある。道徳や宗教をめぐるわれわれの意見の不一致が、人間的善の究極の多様性をは反映するものである限り、熟議型の相互尊重を通じて、われわれは多様な生が表現する固有の善をよりよく理解できるようになるだろう。

きわめて美しい考え方だと思う。Michael Sandelが世界各地で白熱教室を開催しているのは、まさにこの「熟議型の相互尊重」を実践しようとしているのだろう。
私も「熟議型の相互尊重」が成り立てば理想的だと思うし、それを目指した努力は重要である。しかし、「政府は価値中立的であるべし」というsimpleな原則の方が安全なことも多いのではないか。また、正直に告白すれば、常に「善き生」を目指して生きていくことは疲れる。他者の自由を侵さない限りにおいては、「固有の善」を持たない生き方であっても許されるとも思う。
Michael Sandelは「善き市民」である。しかし、私は彼ほど「善き市民」ではいられない。

公共哲学 政治における道徳を考える (ちくま学芸文庫)

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リベラリズムと正義の限界

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