「佐幕派の「維新レジームからの脱却」論」(id:yagian:20140114:1389648498)にも書いたように、呉智英「封建主義者かく語りき」を意識しつつ「佐幕派」を称していくつかの極論を書いてきた。舞台裏を明かすのは野暮だけど、「佐幕派」という少数派の極端な立場をとることで多数派が自明と思っていた考えをひっくり返すのが目的の半分本気の冗談だった。
しかし、考えてみれば、今回の都知事選をめぐる関係者は、細川護煕、小泉純一郎、安倍晋三と世襲の政治家ばかりである。形式的には選挙で選ばれているけれど、それぞれの地域の「お殿様」が治世を行っているのであれば実質的には封建制なのではないか、と気がついた。
そこにダメ押しになったのがこの記事である。
「「細川氏には悪代官が付いてる」“秋田の殿”が苦言」(http://goo.gl/2FkbVC)
佐竹家の末枝である秋田県の佐竹敬久知事が細川護煕に苦言を呈したという。「お殿様」が「お殿様」に苦言とは。
呉智英は「封建主義者」、私は「佐幕派」が「少数派の極端な立場」とばかり思っていたけれど、実際には日本の現実の方がよほど封建主義なのであった。
現実に、細川護煕は釣友に「大老をお務めになった方が、いまさら江戸町奉行をお務めになることはないでしょう」と諌められたという。そして、細川護煕自身が「殿、出番です!」のWebsiteを作り、ドクター中松が悪ノリして「直参旗本、出番です!」と追いかけた。
こんな現実を前に「佐幕派」を名乗ったところで冗談にもならない。
そこで、真の少数派を目指し、「佐幕派」改め「共和主義者」を宣言したい。
「共和主義」はいくつか定義があるようだが、ここでは「君主制廃止」の意味で使っている。ひらたく言えば「天皇制廃止」を主張するということだ。現代の日本では、社会主義、共産主義の立場からではなく天皇制廃止を主張する「共和主義者」は、さすがに少数派であろう。イギリスなど王室がある民主国家では、少なくない「共和主義者」が存在している。
さて、まず天皇制を規定している日本国憲法を見てみよう。なんと第一章が「天皇」である。民主主義国家であるにも関わらず。ちなみに第二章が「戦争放棄」であり、第三章にやっと「国民の権利及び義務」がでてくる。共和主義者の私の目から見れば、主権者たる国民の規定が最初に置かれてしかるべきなのではないか、と思う。
第一章 天皇
第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
第二条 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範 の定めるところにより、これを継承する。
第三条 天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。
第四条 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。
2 天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる。第五条 皇室典範 の定めるところにより摂政を置くときは、摂政は、天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には、前条第一項の規定を準用する。
第六条 天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。
2 天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。第七条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
一 憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
二 国会を召集すること。
三 衆議院を解散すること。
四 国会議員の総選挙の施行を公示すること。
五 国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。
六 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。
七 栄典を授与すること。
八 批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。
九 外国の大使及び公使を接受すること。
十 儀式を行ふこと。第八条 皇室に財産を譲り渡し、又は皇室が、財産を譲り受け、若しくは賜与することは、国会の議決に基かなければならない。
第一条である。
私は「普通の改憲論者」とは違い、Americaから押し付けられた憲法だから改憲すべきとは思わない。しかし、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」という文章は、英語の直訳調だなとは思う。
それはさておき、日本国や日本国民統合の「象徴」をわざわざ法律で規定する必要があるのだろうか。
例えば、富士山は日本の象徴だと認める人は多いと思う。だからこそ、富士山が世界遺産に認定されたのがあれだけの大きなnewsになったのだろう。しかし、誰も富士山が日本の象徴だと法律で規定しようとする人はいない。事実上国民の総意で富士山は日本の象徴なのであり、逆に、法律で規定してもそれが国民の総意でなくなれば日本の象徴ではなくなる。
皇位継承の方法が問題になったとき、「日本国や日本国民統合の象徴」が生身の人間だからいろいろな問題が起きるのであって「象徴」でありさえすればよいのであれば、富士山を天皇にしたらどうか、という富士山天皇説を唱えたことがある(当然ながら、何を言っているのかまったく理解してもらえなかったが)。しかし、富士山が爆発して崩壊してしまったら困るので、生身の人間でなければ問題が起きないということではない、ということに気がついた。万物は流転する。
憲法で「象徴」を規定するから問題がおきるということであれば、発想を逆転させて第一章をまるごと削除したらどうだろうか。天皇制にまつわる問題が一気に解決してしまう。
私は共和主義者といってもCromwellやRobespierreと違って穏健派である。天皇や天皇家を追放しようとかGuillotineにかけようとはまったく思っていない。ただ、日本国憲法の第一章を削除するだけで良い。憲法から第一章を削除しても、もし国民が総意として天皇を「日本国や日本国民統合の象徴」だと考えれば「象徴」であり続けるだろうし、そう考えなくなれば「象徴」ではなくなる。以上。
かなりの淘汰はあったけれど、佐竹家や細川家などの大名家はいまだに「お殿様」と思われている。繰り返すが、これは法律で規定されているからではなく、地域住民が彼らを「お殿様」と考えているから彼らは「お殿様」でいられるのである。そして、県知事選挙で彼らに投票した県民は、彼らを「お殿様」と考えていることを「民主主義の制度」を通じて表現したのである。熊本県や秋田県は封建制が実現しているということだ。
日本国憲法第一章削除後の天皇と天皇家は、彼らを支持する国民からの寄付や日本の伝統文化や神道を代表する一種の家元として存在すれば良いと思う。国民が天皇や天皇家を実質的な「象徴」として意味があると考えれば、それで経済的に成立するはずだ(「右翼」の人たちは身を投げうって寄付すべきだろう)。
天皇が行っている祭祀は、歴史文化的に重要なものだと思うが、民主主義国家の憲法に規定される君主としては政教分離の問題が生じる。しかし、憲法外の存在となればなんの問題もない。
天皇の継承問題について、主として「右翼」の人たちがあれこれ自分の意見を述べているけれど、あれは極めて「不敬」な行為ではなかろうか。もし、伝統的な存在としての天皇を尊重しているのであれば、一国民の身分で継承問題に意見を述べられるはずがないと思う。これも憲法から切り離されれば、国民の意見などを斟酌する必要がなく、天皇家の意志として継承方法を決めればよい。
日本も民主主義国家としての歴史を重ねてきたのだから、そろそろ「天皇」や「お殿様」から手を切ったらどうだろうか。
内閣総理大臣は「大老」ではないし、東京都知事は「江戸町奉行」ではない。肥後の「お殿様」が東京都知事になってどうするというのだろう。
- 作者: 呉智英
- 出版社/メーカー: 双葉社
- 発売日: 1996/07
- メディア: 文庫
- 購入: 2人 クリック: 27回
- この商品を含むブログ (50件) を見る