「負け犬」のための民主主義

選挙が近づくと投票を呼びかける広報を見かける。
確かに投票をすることは重要なことだけど、私の場合は虚しさも感じる。
都知事選挙は、選挙権を得てから一回も当選した候補に投票したことがない。今回も有力候補に都知事としての魅力をまるで感じないから、「勝ち馬」の乗れる気がしないまるでしない「負け犬」な私。そんな私に、都知事選挙は棄権しないで投票したほうがよいと断言できますか?
そういう少数派の私が民主主義国家に生きる上で選挙権に劣らず重要なことは、少数派であっても最低限の自由は確保されている、ということだ。
そのためには、その選挙で選挙民が当選者に付託する権限、権力は制限されていたほうがよい。彼らに全権が委ねられてしまうことは、「負け犬」にとっては恐ろしいことである。
今回の都知事選で脱原発の是非が論点となりつつある。「負け犬」から見れば、都知事にそんな権限を付託する覚えはまったくないので、的はずれな論点としかいいようがない。
細川護煕に代表される脱原発派が、脱原発を今回の都知事選挙の論点にしようと仕掛けているように見える。しかし、仮に舛添要一が当選して、原発再稼働派が「選挙の結果原発再稼働が支持を得た」と主張したら、細川護煕はどのように答えるのだろうか。
都知事選挙はあくまでも都知事として付託された権限の範囲でできることを論点としてほしい。「負け犬」にとっては、仮に都知事選挙で投票した候補者が当選しなくても、それ以外の範囲については自分の自由が確保されているのだ。