原子力発電所の再稼働に関する思考実験

今日も実現可能性の乏しい極論を書く。おそらく実現はしないと思うけれど、論点を明確にする効果があると考えている。
今日の主題は原子力発電所の再稼働をどのように決定すべきか、という問題である。
私の答えは、放射性廃棄物の最終処分、重大事故発生時の賠償責任など、現在は国などが負担している原子力発電に関する費用のすべてを発電事業者の負担にすればよい、ということである。
経営者は、原子力発電所の運転に関するすべての収益と費用、riskを総合的に判断して再稼働の是非を判断するはずだ。また、経営者の判断の是非を株主が評価し、発電事業者の株価が変動する。この方法がもっとも妥当な判断が得られると思う。
現在の発電事業者は、原子力発電所に関する社会的なすべての費用を負担している訳ではない。だから、発電事業者の経営者と株主の判断は社会的な便益と費用のすべては反映していない。社会的に最適な水準からはより推進側に偏っている。したがって、現在の制度では、原子力発電所の再稼働の是非は、社会的費用の一部を負担している国が判断すべき、ということになる。
しかし、国が適切な判断を下せるのだろうか。私は否定的である。
詳しくは「地球温暖化個人主義」(id:yagian:20080628:1214631090)に書いたが、政治哲学には、アングロサクソン系経験主義とヨーロッパ大陸系合理主義の立場がある。
合理主義の立場からは、人間の知性によって合理的に正しい判断ができると考える。一方、経験主義の立場からは、人間は誤ることもある存在だが、集合知は個人の知性を越えた判断を下すことができると考える。集合知の事例として、長い歴史の試練を経て生き残った伝統や市場などがある。
合理主義者であれば、国が専門家に諮問し必要な情報を集めれば適切な結論を得ることができると考える。経験主義の立場に立つ私は懐疑的だ。確かに合理主義的に結論が得られる問題もあるだろう。しかし、原子力発電所再稼働の問題は合理的に解決するには複雑過ぎる問題だと思う。
集合知である株価が必ずしも正しい結論を示している訳ではない。それは、人間の限界である。しかし、少数の専門家による「合理的判断」よりは適切な判断が下せると考えている。政治家や官僚は政府の資金の使い方を判断、決定するが、それは彼ら自身の身銭ではない。経営者は判断を誤れば会社が倒産するし、株主は自らの金を失うことになる。身銭を切る人の方がより真剣に考えるはずだ。
この決定方法は原子力発電所の再稼働にだけ当てはめるべきだということではない。再生可能エネルギーの採用も同様である。これも国が政策的に支援するのではなく、その収益と費用を事業者に負担させるような制度を作った上で経営判断、市場の判断にゆだねるべきだと考えている。そのため、再生可能エネルギーの固定価格買い取り制度には反対である。

市場・知識・自由―自由主義の経済思想

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