「純文学」と「エンターテイメント」:佐村河内守名義の新垣隆と新垣隆名義の新垣隆

佐村河内守事件について音楽関係者からいくつかの論評がでてきた。

私は現代音楽を聴かないし、また、現代音楽界については知識がないけれど、事件の構図や新垣隆の作曲の意義についてある程度理解できたように思う。
まず、私自身が佐村河内守事件について理解したことを書く前に、「芸術」と「エンターテイメント」の区分について整理しておこうと思う。
福田和也「作家の値うち」のなかで、「純文学」と「エンターテイメント」の区別について書かれている文章がわかりやすいと思うので引用しようと思う。

 エンターテイメントにおいて、作家は読者がすでに抱いている既存の観念の枠内で思考し、作品は書かれる。その枠内において、人間性なり恋愛観なり世界観といったものは、いかに見事に、あるいはスリリングに書かれていても、読者の了解をはみだし、揺るがすことがない。
 純文学の作家は、読者の通念に切り込み、それを揺らがせ、不安や危機感を植え付けようと試みる。
 あるいは、このように云ってもいいだろうか。
 エンターテイメントの作品は、読者に快適な刺激を与える。読者を気持よくさせ、スリルを与え、感動して涙させる。
 純文学の作品は、本質的に不愉快なものである。読者をいい気持ちにさせるのではなく、むしろ読者に自己否定・自己超克をうながす力を持っている。

夏目漱石はこの区別を「道楽」「職業」という言葉で表現している。「道楽と職業」という講演から引用しよう。

…職業というものは要するに人のためにするのだという事に、どうしても根本義を置かなければなりません。人のためにする結果が己のためになるのだから、元はどうしても他人本位である。既に他人本位であるからには種類の選択分量の多少凡て他を目安にして働かなければならない。…

…科学者哲学者もしくは芸術家の類が職業として優に存在し得るかは疑問として、これは自己本位でなければ到底成功しないことだけは明らかなようであります。何故なればこれらが人のためにすると己というものはなくなってしまうからであります。ことに芸術家で己のない芸術家は蝉の脱殻同然で、殆ど役に立たない。…私が文学を職業としていると見るよりは、己のためにする結果即ち自然ある芸術的心術の発現の結果が偶然人のためになって、人に気に入っただけの報酬が物質的に自分に反響して来たのだと見るのが本当だろうと思います。…

…芸術家とか学者とかいうものは、この点において我儘ものであるが、その我儘なために彼らの道において成功する。他の言葉でいうと、彼らにとっては道楽即ち本職なのである。

…直接世間を相手にする芸術家に至ってはもしその述作なり製作がどこか社会の一部に反響を起こして、その反響が物質的報酬となって現れてこない以上は餓死するより外に仕方がない。…

福田和也のいう「エンターテイメント」が漱石の「職業」、福田の「純文学」が漱石の「道楽」に対応している。
小説に関して言えば、私は「純文学」も「エンターテイメント」も読む。それぞれがそれぞれの価値を持っていると思っている。
「純文学」は古典的な作品の方が理解しやすく、過去の「エンターテイメント」は古びやすいという傾向はあると思う。
福田和也が言うように「純文学」の作品は、「読者の通念に切り込み、それを揺らがせ、不安や危機感を植え付けようと試みる」から、同時代の読者にとっては理解しにくいことが多い。すぐれた「純文学」の作品は、来るべき時代の「通念」を予告する予言的な性格がある。だから、時代が経てようやく理解されるようになる、という現象が起こりうる。
漱石や鷗外の作品を同時代の作品と比較すると、実に前衛的だと思う。もしかしたら、同時代には前衛的だということに気が付かれないぐらい前衛的だったかもしれない。そして、現代の私が読むと、あまりに現代的な問題を扱っていて驚き、また、共感するという現象が起きる。
「エンターテイメント」は、「作家は読者がすでに抱いている既存の観念の枠内で思考し、作品は書かれる」から、その観念が失われてしまえば、その作品自体の面白さも理解できなくなる。その意味では、「エンターテイメント」は旬な作品を読んだ方がよいかもしれない。
村上春樹の小説は、読みやすい文体で書かれているが内容は通念を揺さぶる純文学そのものである。「本質的に不愉快な」彼の小説は、現在「売れすぎている」と思う。そもそも純文学を好んで読む人の数は限られているから、評判に惹かれて彼の小説を読んで失望する人が多いのは当然である。
私は東野圭吾の熱心な読者ではないけれど、彼の作品を何冊か読んで「読者に快適な刺激を与える」ための「エンターテイメント」として実に優れていると感心した。
「純文学」の世界なかで村上春樹は優れた小説家であり、「エンターテイメント」の世界のなかで東野圭吾は優れた小説家である。村上春樹東野圭吾は分野が異なるため優劣を比較することはできないだろう。
図式的に「純文学」と「エンターテイメント」を捉えるとこのようになるのだが、実態はもう少し二つの分野は混交している。
J. G. Ballardや筒井康隆はScience Fictionという「エンターテイメント」の様式を使い、「本質的に不愉快な」「純文学」の作品を書いた。Steven Kingは「エンターテイメント」の最高の技術を持つ小説家だが、意図せずに「純文学」の領域に入ってしまうこともある。一方、純文学者がそこで得た技術のすべてを注ぎ込むことですぐれた「エンターテイメント」を書くこともありうるだろう。
それでは、新垣隆の作曲活動をどう考えることができるのだろうか。
大雑把に整理をするならば、本名で活動していた新垣隆は「純文学」「道楽」としての作曲をしており、佐村河内守名義で活動していた新垣隆は「エンターテイメント」「職業」として作曲していた、ということになるのだろう。
私は、新垣隆名義の作品を聴いたことはないし、また、仮に聴いたとしても評価はできないと思う。また、佐村河内守名義の作品も断片的に耳にしたことがあるだけで、これの「エンターテイメント」としての評価も、技術的評価もできない。
冒頭に引用した評論を読む限り、新垣隆名義では先端的な現代音楽の作曲家であり、佐村河内守名義では技術は高く手抜きのない職人であったようである。
まったく外側の人間から見ると、現代音楽界において「純文学」と「エンターテイメント」の領域をもう少し自由に往還できてもよいのではないかと思った。
谷川俊太郎が「自分は唯一の専業の現代詩作家」と語っていた。確かに、現代詩を「職業」として成立させることは極めて困難だから、現代詩作家の多くは他に生業を持っている。谷川俊太郎は生業を持たない代わりに、絵本をつくり、校歌を書き、鉄腕アトムの歌詞を書き、Peanutsのcomicsの翻訳をし、そうやって生計を立てている。そういう谷川俊太郎を「不純」だと批判する人はいないだろう。

作家の値うち

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漱石文芸論集 (岩波文庫)

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