気持ちのいい音:細野晴臣「分福茶釜」を読む

図書館から借りてきた細野晴臣分福茶釜」を読んだ。
細野さんの音楽はもちろん大好きだけど、彼の言葉もなかなか味わい深い。まずは、気になった箇所をいくつか引用したい。

 これは誇りでもなんでもなくって、むしろ劣等感なんだけど―自己表現がヒネくれてるわけだ。たとえば今の社会は、音楽がストレートでしょ?真摯なメッセージを聴いて泣く人がいるわけじゃない。そういうのを見ると、あ、自分は仲間はずれなんだなって思う。あの仲間には入れない。(p50)

 音楽におけるコンセプトなんていうものは、これはもう後付けだから。単なる言い訳。屁理屈。とにかく音楽の神髄はその場で楽しいことだよ。リラックスしてやる、と。そういうときに「考え」ってのは不要なんだ。だから楽しいわけだ。考えちゃうとダメで、だからぼくは音楽を「恋愛」に喩えるわけだ。
 高田純次が言っているんだけど、女性の胸を夢中で触っているとき、「アレ?自分は今何をやってるんだろう」ってふと考えちゃうと、とたんにシラけた気持ちになるって(笑)。(p45)

細野さんの音楽をずっと聴いていると、「ああ、気持ちいいなぁ」と感じる。彼が気持ちのいい音を追い求めていることがよくわかる。
もちろん、「真摯なメッセージ」を載せた音楽があってもいいし、それを聴いて泣く人がいてもいい。でも、細野さんの「あ、自分は仲間はずれなんだな」という気持ちもよくわかる。最近は、混じりけなしのただ「気持ちのいい音」を聴いていたいことが多い。
これは自分のただの趣味だけれども、rock musicでは、くだらない歌詞にかっこいい音という組み合わせこそが最高にかっこいい。「真摯なメッセージ」を載せた瞬間に、もう、かっこよくないよな、と思う。

 今はね、そんなに自己表現したいっていう欲求はなくて、むしろミディアム、つまり媒介だっていう意識の方が強い。もちろん、昔は違ってたよ。「自分はスゴイ」「いや最低だ」って、いつも大揺れに揺れていた。でも思い知らされたんだね。過去の音楽を知れば知るほど。圧倒されちゃって。もはや謙虚にならざるを得ない。あらゆることに必ず誰かの印が先についてるから。自分にできることは、そこにちょっと自分の印をつけ加えるくらいのことだ。(p172)

 一般的には、年をとればとるほど頭も心も堅くなっていくように思われてたりするかもしれないけど、本当は逆なんだ。年齢と戦っているとそうなるかもしれない。年をとるってことはいいことなんだよ、本来は。ものの見方が広がっていくんだから。…なかには頑固な人や偏狭な人もいるけど、そういう人は年のとり方を間違えたってことで、本来は自然に年をとれば知恵もつく。(p56)

私も年をとるほど頭も心も柔らかくなるという感覚はある。
若い頃は経験も知恵も乏しいから、どうしても既成の理屈に頼ってしまう。そうすると自由がない。
いろいろなことを経験して、感覚の蓄積の厚みが増してくると、既成の理屈、世間の見方からどんどん自由になってくる。自分自身の感覚で判断ができるようになってくる。これはかなり楽しいことだ。
既成の理屈に頼っている頃は、自己表現したい欲求だけがあり、いくらあがいていても、世間の見方にしばられたものしかoutputできなかった。あえて人と違ったことをしようと思っても「痛い」表現になってしまう。
しかし、自分自身の感覚の蓄積ができると、人と違ったことをしようと思っても、たいていのことは先人がすでにやっているということに気がつく。一方で、わざわざ自己表現したいと思わなくても、自分自身の感覚の蓄積に基づいてしたことは、自然と自分らしくなってしまう。
自己表現しよう、「真摯なメッセージ」を伝えよう、とか思わず、ただ自分にとって「気持ちのいい音」を追求することで、結局、知らず知らずのうちに自分らしさにたどり着いてしまうのだろう。

細野晴臣 分福茶釜 (平凡社ライブラリー)

細野晴臣 分福茶釜 (平凡社ライブラリー)