努力は報われるか:クリント・イーストウッドとバッドエンディング

クリント・イーストウッドの真実」

ハドソン川の奇跡」の公開とタイミングをあわせて、スカパー「イマジカBS」でクリント・イーストウッドの特集をやっていた。そのなかで、「クリント・イーストウッドの真実」というドキュメンタリーを見た。デビューから「インヴィクタス」までのクリント・イーストウッドの歴史を、彼へのインタビューと映画のシーンで振り返るという内容だった。

クリント・イーストウッドの映画は昔から大好きで、系統的に見ている。好きな映画はいろいろあるけれど、インパクトという意味では「ミリオンダラー・ベイビー」がいちばん強烈だった。

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ミリオンダラー・ベイビー」はなぜあれほどまでのバッドエンディングなのか?

 ずいぶん映画は見てきたけれど「ミリオンダラー・ベイビー」ほど救いのないバッドエンディングは見たことがない。そして、なにゆえクリント・イーストウッドはあのようなエンディングを選んだのか、そして、そのことで何を表現しようと思ったのか、これまであれこれ考えてきた。

彼の映画を見ると、たしかに素直なハッピーエンディングは少ない。しかし、積極的にハッピーエンディングを拒絶している訳でもないらしく、「インヴィクタス」はハッピーエンディングである。また、「グラン・トリノ」は悲劇的に終わるけれど、主人公は報われているところが「ミリオンダラー・ベイビー」とは大きく違っている。「許されざる者」は、主人公は友人のための復讐を成就させたという意味では一種達成感がある。しかし、過去の悪行を悔いて真人間として暮らしていたにもかかわらず、復讐を成就させるために過去のような非道な人間に戻らなければならなくなり、ハッピーエンディングとは言いにくい。

しかし、「ミリオンダラー・ベイビー」は、そのような留保なく、純然たる100%のバッドエンディングだった。「ミリオンダラー・ベイビー」の前作の「ミスティック・リバー」もかなり後味が悪い終わり方で、このころはクリント・イーストウッドの映画を見るたびに打ちのめされていた記憶がある。

筋の通った生き方をすることによる人生の結末

クリント・イーストウッドの映画の主人公は、たいてい、自分の考え方(時としてかなり歪んでいる)に従った筋の通った自立した生き方をしている。しかし、自分の考え方を押し通すために、社会からは孤立していることも多い。彼の映画のストーリーの中で、孤立した主人公は心を通わせることができる人と出会い、そして別れる。別れたところで映画の結末になることもあるし、その後の話が語られることもある。

許されざる者」のビル・マニーも、「パーフェクト・ワールド」のブッチも、「ミリオンダラー・ベイビー」のマギーも、「グラン・トリノ」のコワルスキーも、「インヴィクタス」のネルソン・マンデラも典型的なクリント・イーストウッド映画の主人公である。しかし、彼らの人生の結末はさまざまだ。

おそらく、クリント・イーストウッドは、自分の考え方に従って筋の通った自立した生き方をすることが重要だと考えている。しかし、その生き方の結果は人取りではない。

「インヴィクタス」のように大きな果実を得ることもあるし、「ミリオンダラー・ベイビー」のようにまったく報われないこともある。多くの場合はその中間の結果に至る。しかし、クリント・イーストウッドの映画のなかで、マギーはネルソン・マンデラより劣っている、という扱い方はされてない。だから、生き方のプロセス、姿勢こそが重要で、その結果は重要ではない、とクリント・イーストウッドは言いたいのではないだろうか。

努力は報われるか

Blogos「努力をすれば報われる社会」と思っている人は15%にすぎない、という記事があった。

blogos.com

「努力」という言葉は人によってさまざまなイメージがあるから、かんたんにまとめるのは難しいけれど、クリント・イーストウッドの映画に従えば、ネルソン・マンデラのように努力はすばらしく報われることもあるし、マギーのようにまったく報われず、それ以上に悲惨な最期を招く場合もある、ということだろう。

個人的には、「努力」は「成果」を保証するものではないから、「成果」を目的として「努力」すると人生がどんどん苦しくなっていくことも多いのではないかと思う。

マギーがボクシングをするのは、それがなにかの「成果」をもたらすからではなく、やむにやまれない思いゆえである。フランキーがマギーのコーチをするのは、マギーが成功することを期待しているからではなく、そのやむにやまれない思いを感じ取ったからだ。

ネルソン・マンデラも、ハッピーエンディングを迎えることができたけれど、獄中にいるときは、ほんとうにそのような「成果」を得られるかわからなかったはずだ。もしかしたら、マギーのようにすべてを奪われるような悲惨な最期を遂げたかもしれないし、実際に彼の仲間の多くはそうした最期を遂げたのだろう。

努力は報われることもあるし、報われないこともある。だから、何か努力をするときは、結果を考えるのではなく、努力そのものに意味を見いだせることを選ぶべきではないか、と思っている。