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Peter Stark "Astoria”:北米太平洋岸のグローバリゼーションの歴史

北米太平洋岸のグローバリゼーションの歴史 

夏休みに旅行したポートランドで買ったPeter Stark "Astoria"という本を読み終わった。この本は、19世紀前半、ジョン・ジェイコブ・アスターという事業家が、オレゴン州ワシントン州の州境を流れるコロンビア川の河口にアストリアという植民地を作ろうとし、最終的に失敗に終わるエピソードについて書かれたものである。 

なぜそんな本を読もうとしたのか。説明しょうとすると少々長い話になる。

このブログで何回か書いたけれど、いま、グローバリゼーションの歴史について追いかけている。

15世紀後半に端を発する大航海時代よりヨーロッパの船が探検を進め、世界の各地域がヨーロッパを中心とする交易のネットワークに組み込まれていく。ざっくりいえば、そのプロセスがグローバリゼーションの歴史ということになる。

カリブ海イスパニョーラ島、中米のアステカ帝国、南米のインカ帝国は、グローバリゼーションの歴史のごく初期に交易のネットワークに組み込まれた。日本は、ポルトガル人の種子島への漂着が16世紀中頃、鉄砲の流入キリスト教の布教が戦国時代の様相を大きく変えた。

そして、この北米太平洋岸は、いちばん遅くまでグローバリゼーションから取り残された地域だった。最終的には、19世紀中頃にゴールドラッシュが起きて劇的な形でグローバリゼーションに巻き込まれる。この本では、ゴールドラッシュ以前の時代において、西洋人が北米太平洋岸に進出しようとしたごくささやかな試みを扱っている。しかし、ささやかな試みではあるけれど、その背後には世界全体を対象とした、まさにグローバルな構想があり、グローバル化を考える上で絶好の材料を提供していると思う。

毛皮を求めたアメリカの西進

19世紀初頭以前、北米太平洋岸に近づいていた西洋の勢力は、スペインとロシアだった。

スペインは中南米を植民地としていたが、太平洋岸は現在のカリフォルニアまで進出していた。この当時、すでにスペインは植民地を拡大する力を失っていたし、北米太平洋岸には事業が成立するような資源があるとは考えていなかった。皮肉なことに、彼らは北カリフォルニアの金鉱にはまったく気がついていなかった。ロシアは、先住民との毛皮交易を進めながら、カムチャッカ半島アリューシャン列島を経て、現在のアラスカまで進出していた。しかし、その事業も大きな収益を上げるまでには至っていなかった。

1770年代後半、ジェームズ・クックの第三回航海が行われ、現在のアメリカからカナダの太平洋岸が探検測量される。ジェームズ・クック本人は、航海の途中、ハワイで先住民とのトラブルで殺されてしまうが、北米太平洋岸での交易で得たラッコの毛皮が中国で非常な高値で売れることを発見する。そして、航海記録の発刊とともに、その事実が広く知られることとなる。

これとほぼ同時期にアメリカ合衆国が独立する。当初のアメリカ合衆国は大西洋岸の地域に限定されており、シエラネバダ山脈を挟んだミシシッピ川流域はフランス、現在のカナダ東部の地域はイギリスの植民地だった。そして、北米太平洋岸には、スペイン以外の恒久的な植民地はなく、帰属も定まっていない状態だった。

ジョン・ジェイコブ・アスターのグローバルな三角貿易とアストリア

ジェファーソン大統領時代、ナポレオン・ボナパルトのフランスは、シエラネバダ山脈以西、ミズーリ川沿岸の地域の植民地を維持することが難しいと考え、1803年にアメリカ合衆国に売却した。ルイジアナ買収と呼ばれている。これ以降、ジェファーソン大統領は、アメリカの西への拡張、探検を積極的に進め、ルイス&クラークの探検隊がアメリカ人ではじめて陸路を通って太平洋岸まで到達する。

ドイツから移民し、ニューヨークで貿易と不動産業で成功していたジョン・ジェイコブ・アスターは、ジェファーソン大統領に共感し、北米太平洋岸のラッコの毛皮に目をつけグローバルな事業を構想する。ニューヨーク、ロンドンで工業製品を仕入れる。南米南端のホーン岬を超え、太平洋に到達し、北米太平洋岸でネイティブ・アメリカンと工業製品(鉄製品、毛織物、ビーズなど)と交換で毛皮を手に入れる。この交易を大規模に行うために、コロンビア川河口部に根拠地を作る。太平洋を横断して中国で毛皮を売り、茶、陶器、絹製品を仕入れ、ニューヨーク、ロンドンで売却する。

この事業を実現するために、コロンビア川河口の根拠地建設のために、アスターはパシフィック・ファー・カンパニーを設立し、陸路と海路それぞれの遠征隊を派遣する。

アストリア根拠地建設の困難と失敗

このコロンビア川河口の根拠地はアスターの名を取ってアストリアと呼ばれていた。アスターは周到な事業家で困難は予測し、対応していた。しかし、予測を超える困難な条件があった。

ルイジアナ買収から年月が経ていないことからわかるように、アメリカ合衆国と中西部の関わりはまだ薄かった。中西部でネイティブ・アメリカンとビーバーの毛皮の取引が行われていたが、それは現在のカナダに移住したフレンチ・カナディアンとスコットランド人が担っており、その多くがモントリオールに本社を置くノース・ウェスト・カンパニーに関わっていた。アスターが遠征隊を編成するとき、彼らの多くを雇わざるを得なかったが、ライバル会社のOBで、米英関係が緊張するとともに、彼らの忠誠心を十分信頼できなくなる。

陸路の遠征隊は、パシフィック・ファー・カンパニーの株主でもあるウィルソン・ハントが隊長を務めた。彼は管理者としては有能で、アスターへの忠誠心は確かだったけれど、探検、遠征の経験がなく、最善の決断を下すことができなかった。セントルイスを出発した遠征隊は、ルイス&クラークの探検隊のルート通りにミシシッピ川をカヌーで遡上した。しかし、その途中を勢力圏とするブラックフット族が白人に対して敵意を持ち、きわめて戦闘的なため、ミシシッピ川から騎馬と徒歩でロッキー山脈を越えるルートを選択した。道案内人を得ることができないまま未知のルートを進み、ロッキー山脈の山中で冬を迎えることになる。生き延びるために遠征隊は分裂する。

海路の遠征隊は、ジョナサン・ソーンが指揮するトンキン号で南米ケープホーンを周回し、ハワイで補給をした後、コロンビア川河口に向かう。ソーンは米国海軍の元軍人で、きわめて厳格、頑固であり、乗船していた毛皮商人、事務員たちとのおりあいが悪かった。海の難所であるコロンビア川河口の砂州で乗員を失ったが、なんとか目的地に到着し、仮の砦を作ることができた。

陸路の遠征隊の消息はわからないまま、トンキン号はバンクーバー島ネイティブ・アメリカンと毛皮の取引に行く。ソーンはネイティブ・アメリカンとの接触の経験がなく、乗船していた毛皮商人の警告を無視した結果、取引をしていた部族から奇襲攻撃を受け、ほぼ全員が殺戮されてしまう。アストリアの砦にいた遠征隊の留守部隊は、トンキン号が帰ってこないことを不審に思っており、ネイティブ・アメリカンたちからの噂としてトンキン号遭難を知る。

その後、ハントの遠征隊はアストリアに到着することができた。しかし、ナポレオン戦争の影響で、1812年にイギリスとアメリカの間で戦争が始まる。パシフィック・ファー・カンパニーのライバルのノース・ウェスト・カンパニーは、イギリス本国にアストリアへ軍艦を差し向けるように働きかけ成功する。一方、アスターもアメリカ政府に軍艦を派遣することを要請するが、当時の米国海軍はきわめて脆弱でその余裕がない。そこで、アスター自身が自費で武装船を派遣する。しかし、熟練した海員が不足していたこともあり、その船はハワイで難破してしまう。

結局、イギリスの軍艦に対して対抗する手段がなくなったアストリアの砦は、パシフィック・カンパニーからノース・ウェスト・カンパニーに売却されることになった。遠征隊のなかの一部の人たちはそのままノース・ウェスト・カンパニーに移籍し、その他の人たちは陸路もしくは海路を通ってアメリカの東海岸に戻っていった。 

現在のアストリア

 去年の夏のポートランド旅行のとき、レンタカーを借りてアストリアと太平洋岸まで日帰りのドライブをした。

アストリアの町のすぐ裏が小高い丘になっていて、コロンビア川の河口から海までを一望できる。最近、帆船時代に栄え、開かれた港町をめぐっているけれど、どこでもかならずすぐ裏手にこのような丘がある。オレゴン州の太平洋岸は自然に恵まれたリゾート地になっていて、アストリアはその入口になっている。

ポートランド周辺は晴れていたけれど、アストリアまでくるとどんよりとした雲が垂れ込めていた。丘から見た風景は、まるで墨絵のような景色になり、夏でも肌寒かった。この気候の土地で越冬するのは辛いだろうと思う。

また、アストリアにはコロンビア川海事博物館があり、展示が非常に充実している。アスター以降のアストリアをめぐる歴史がよく理解できる。

Columbia River Maritime Museum | Astoria, Oregon