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ホッブス「リヴァイアサン」:主権国家の成立について

主権国家論」

今年は、民主主義について考えるために、政治哲学に関する古典的な本を系統的に読んでいこうと思っている。その第一弾として、ホッブスリヴァイアサン」を読んだ。

書店の書棚に、岩波文庫版の「リヴァイアサン」の一巻、二巻がならんでいたので、ああ、二巻本なんだ、と思い購入した。解説を読むと、実は四巻本だということが分かった。しかし、現代の民主主義に結びつく論考は、第一部「人間について」(第一巻)と第二部「コモンウェルスについて」(第二巻)を読めば良さそうなので、この二巻を読むことにした。

表題のリヴァイアサンとはコモンウェルスを指している。コモンウェルスとは、ホッブスの用法では、ざっくり主権国家を意味しているので、「国家論」「主権国家論」と訳した方がわかりやすかろう。

リヴァイアサン」に関する教科書的知識としては、「万人に対する闘争」と「社会契約論」ということになるのだろう。実際に読んでみて、それは誤りではないけれど、そこに至るまで人間の認識、思考とはなにかという哲学的な問いかけや、社会契約によって形成されるコモンウェルスの特徴について詳しく記述されている。原書にあたることによって、ホッブスがなにゆえ「社会契約論」に至ったのかその背景や、彼の考える望ましい国家像が理解できる。そして、ホッブス主権国家像と現代で考えられている一般的な民主主義国家像との共通点と相違点を比較することで、現代の民主主義国家像が相対化され、考えを深めることができる。

リヴァイアサン〈1〉 (岩波文庫)

リヴァイアサン〈1〉 (岩波文庫)

 

 

リヴァイアサン〈2〉 (岩波文庫)

リヴァイアサン〈2〉 (岩波文庫)

 

デカルトホッブス主知主義と経験主義

しばらく前、デカルト方法序説」を読んだ。デカルトホッブスは同時代人で、お互い面識があったらしい。しかし、仲はよくなかったという。たしかに「方法序説」と「リヴァイアサン」を比較すると、なるほど、基本的な哲学がずいぶん違っていると思う。

デカルトは「我思うがゆえに我あり」ということを、すべての哲学的思考の確実な基礎となる出発点だと考えている。一方、ホッブスは、思考は過去の感覚の記憶の集合体である経験に基づき、感覚は外部の運動の感覚機関への圧迫によって生じると考えており、「思考」がそれほど確実な基礎とは考えていない。

近代思想のごく初期から、大陸の主知主義とイギリスの経験主義の伝統の対立がある、ということがよくわかる。これから政治思想を読み進めていくけれど、主知主義と経験主義の対立がひとつの理解の軸になっていくのだろうと思う。今、私個人としては、イギリスの経験主義に共感しているけれど、古典を読むことによって、その考えが変わらないのか、変わっていくのか、ちょっとわくわくしている。

ホッブスは、絶対善などはなく、自然状態では人々は自己の生存のためには何をしてもよいという自然権を持つと考えている。自然状態では「万人が万人に対する戦争状態」になってしまう。その状態から出発して、個人があくまでも自己の生存を追求することによって、主権国家や平和や道徳ができあがるプロセスを描いている。

これは、個人が自己の利益を追求することで、「神の見えざる手」により一種の秩序、均衡状態に至るというアダム・スミスの発想によく似ていると思う。というか、アダム・スミスホッブスの発想にヒントを得て「神の見えざる手」というアイデアを得たのだろう。 

yagian.hatenablog.com

 

方法序説 (岩波文庫)

方法序説 (岩波文庫)

 

 自然状態の実験場としてのファーストコンタクト

 ホッブスに対して、実際には未開人の社会でも「万人の万人に対する戦争状態」になっていないではないか、そのような自然状態は実在しないのではないか、という批判がある。

この自然状態は一種の思考実験だから、自然状態が実在しなくても、ホッブスの議論が意味がなくなる、というものでもないと思う(それをいうなら、「無知のヴェール」も思考実験である)。しかし、大航海時代の航海記を読んでいると、「未開人」と西洋人がはじめて接触する場合、きわめて自然状態に近い状況が生じているように見える。

西洋人の船がやってきた時、「未開人」側の反応としては、威嚇する、歓待する、接触を避ける、という三つの典型的なパターンがあるように見える。

例えば、ニュージーランドマオリ族はきわめて好戦的なことで知られ威嚇をする、戦闘に発展し、西洋人の船の乗組員が殺される場合もあった。これは、ほぼ戦争状態にあるといえるだろう。

また、タヒチやハワイのように歓待する、というケースもある。マオリ族は自らの安全を守るために威嚇しているのだが、歓待するということも、方法は異なるが自らの安全を守るという目的では共通している。ハワイでは歓待されていたキャプテン・クックが最終的にはトラブルによって殺害されてしまう。いかに歓待されていても一皮むけば戦争状態になりかねない微妙なバランスでなりたっている。遊牧民に外来者を歓待する文化があることが多いが、これも似たようなメカニズムなのだと思う。

オーストラリアのアボリジニは、徹底して西洋人との接触を避けていた。知らない人たちとの接触を避けるのも、これは自然状態で自分の安全を守るためのひとつの方法なのだろう。

民主制の前提条件

ホッブスは、民主制であれ、貴族制であれ、君主制であれ、主権国家では、主権者に権力が集中していることが国家が安定して継続するための第一要件であり、主権国家が国民(臣民)の安全を保証するためには、臣民も主権者に対して従順でなければならない、ということを強調している。

たしかに、独裁制から民主制に移行することに失敗している国を見ていると、投票で代表者を選出すれば民主制が成立しているわけではないということを痛感する。投票で代表者を選出する以前に、その民主制に対する従順、服従という意識が共有されなければ、安定した民主国家にならない。例えば、政敵が当選した場合、民主制以外の方法、例えば、軍事的なクーデターによって政権を転覆しようとは考えない、とか、また、政権を握った側も政敵を超法規的に迫害をしない、とか、選挙のルールは守るべきだという意識が共有されているとか、国民に民主制や法の支配を尊重すべきという共通意識がなければ安定した民主制は成立しない。

次は時代をさかのぼって、マキャベリ君主論」を読んでみようと思う。

リヴァイアサン第一部、第二部」要約

序説
  • 国家(コモンウェルスリヴァイアサン)が、どのようにして作られるか、主権者の権利、権力、権威とは何か、何がそれらを維持し、解体するのか、について考察する。
第一部人間について
  • 人間の思考の根源は感覚である。感覚とは、外部の物体の運動による感覚機関への圧迫によって喚起される。
  • 感覚は距離や時間の経過とともに薄らぐ。この薄らぐ感覚をイマジネーションと呼ぶ。過去に関するイマジネーションが記憶であり、記憶の集合が経験である。
  • 人は全部あるいは一部を感覚したことがあるものごとしか思考できない。人の思考は、ひとつの思考から次の思考、さらにその次の思考は、一定の系列をなす。未来や過去に関する思考の系列を推測と呼ぶ。
  • 人は、ことばによって思考を記録し、想起し、公表することができる。人が話を聞きいた時、その語と語の結合が表現する思考を自らも持った場合、理解したという。
  • 行為はつねに先行する思考に依存している。行為の結果に向けられた思考が欲求、意欲であり、あるものから離れることを目的とした思考が嫌悪である。当人にとっては、欲求、意欲の対象が善であり、憎悪の対象が悪である。善悪は対象自体の本性から引き出されるものではなく、対象を使用する人格に関わるものである。
  • 推理とは、名辞と名辞を結合し、その総計を概念することである(例えば、二つの名辞を結合し断定をつくり、二つの断定を結合し三段論法をつくるように)。推理の誤りは、出発点の名辞の定義が誤っていたり、適切な語を用いず比喩などの修辞を用いることなどによって生じる。
  • 推理が語の定義からはじまり、語の結合による断定、断定の結合による三段論法に進むプロセスを科学と呼ぶ。推理が語の定義から始まらないときは、その終末は信仰と呼ばれる。
  • 知力には経験によって獲得されるものと、方法、訓練、指導によって獲得されるものがある。後者は、推理である。前者は、ものの類似性を見出す想像力と、ものごとの間を区別、識別、判断する判断力に分類できる。すぐれた知力においては、判断力が不可欠である。高い知力には知識への意欲が必要だが、過剰な意欲、情念は狂乱をもたらす。
  • 知識には事実についての知識と、ひとつの断定から他の断定への帰結についての知識がある。前者は感覚と記憶そのものであり、この種の知識の記録は、自然を対象とした自然史、コモンウェルスのなかの人びとの行為を対象とした社会史に分類できる。後者は科学である。
  • 力とは、善(自らの利益)を獲得するための道具であり、身体的な能力、容姿、財産、評判、友人などが含まれる。人間の力で最大のものは、コモンウェルスの力のように多数の人びとの同意による力の合成である。人の価値は、その人の力の使用に対する他者の評価であり、状況によってその価値は変化する。他者の価値の評価を表明することを名誉(もしくは不名誉)を与えることと呼ぶ。
  • 道徳哲学者が主張していた究極目的、至高善といったものは存在せず、人はそれに向かって生きているのではなく、死ぬまで休むことのない力への意欲によって行為し続ける。
  • 人は原因を追い求めるが、究極の原因に到達することができず、永続的な恐怖に苛まされる。そして、究極の原因を神と考えるようになり、宗教が発生する。コモンウェルスの統治者たちは、戒律が彼ら自身の案出ではなく、神による命令だという信仰を民衆に刻みつける。また、民衆自身が不幸になったときは、統治者の誤りではなく、民衆自身の儀式における怠慢、法に対する不従順に帰すように促す。
  • 人びとは肉的的にも精神的にはおおむね平等である(精神の平等性を否定する人は自分の能力にうぬぼれている)。このため、各人が目的達成を目指す過程で競争、不信が生じる。その結果、共通の権力がなければ、各人の各人に対する戦争状態となる。共通の権力のないところには法はなく、法がなければ不正の観念はない。このような戦争状態においては、なにごとも不正ではない。
  • 自然権とは、人は生命を維持するために自らの力をどのようにでも使用できる自由である。人は他者の身体を含め、あらゆるものに対して権利を持っている。しかし、この権利を保持する限り各人の各人に対する戦争状態が継続する。このため、理性によって導き出される自然法として「人は平和と自己防衛のために必要と思い、他の人が同じように思う限り、この権利を進んで放棄し、他の人が許すであろう自由を持つことに満足すべき」である。しかし、他の人が同様に権利を放棄しようととしないならば、自らの権利を放棄する理由はない。
  • 相互に権利を放棄することを保証するために、「人びとは結ばれた信約を履行すべき」という自然法が導出される。この自然法のなかに、正義の起源があり、信約を履行することが正義であり、信約の不履行が不正義である。しかし、信約はいずれの側に不履行の恐れがあれば無効であるため、信約の履行を強制するコモンウェルスの設立が前提となる。
  • 人格とは、行為を代表するものである。自らの行為を代表する場合は自然的人格、他人の行為を代表する場合は仮想、または、人為的な人格である。代表者の信約は、彼が代表する他人も含めて拘束する。
第二部コモンウェルスについて
  • 外国人の侵入や相互の侵害から防衛し、安全を保証するための共通の権力を樹立するには、ひとりの人間まはた合議体に、自分たちの人格をになわせ、その意志、判断に従う必要がある。こうして一人格に統一された群衆は、コモン-ウェルスと呼ばれる。この人格を担うものは主権者と呼ばれ、他のすべてのものは臣民である。
  • 内乱にともなう悲惨さ、災厄をさけるためには、主権者には人びとの手が強奪と復讐に向かわないように束縛する強制権力が必要である。そのため、主権者権力は剥奪されえず、臣民によって処罰されず、立法、司法、軍事に関する権利を持ち、それらの権利は分離されえない。
  • コモンウェルスの形態は、一人の人が主権者になる君主政治か、一部の人による合議体が主権者となる貴族政治か、すべての人による合議体が主権者となる民主政治のいずれかである。人は自らの私的利益を求めるため、コモンウェルスの共通利益と私的利益が最も一致する形態が望ましい。君主政治では、君主の私的利害はコモンウェルスの繁栄であり、貴族政治、民主政治より望ましい。君主政治が特定の寵愛者の利益を優先することがあるが、同様のことは民主政治でも起こりうる。また、合議体は多数派の利益に影響され、少数派の利益が保護されにくい。
  • コモンウェルスには、参加者自らが信約によってコモンウェルスを「設立」するケースと、戦争での敗北者の勝者にまたは子の親に対する信約によって「獲得」されるケースのふたつがある。「獲得」の場合でも、敗北者、子は自らの生命の安全を得るための信約によってコモンウェルスへの参加するのであり、主権者の権利は「設立」のケースと変わりない。
  • 自由とは、自らの能力・意志でなしうることを妨げられないことである。コモンウェルスの臣民は、市民法の範囲内で自由である。また、主権者が自分たちに危害を加えようとするときは、服従しない自由を持つ。
  • 人びとの集団・組織のうち、絶対的に独立しているのはコモンウェルスだけで、それ以外は主権者権力に従属しており、コモンウェルスの法、証書などに基づいている。組織・集団は、代表者をもつ正規のものと、代表者を持たない非正規のもの、属州などの政治的なものと家族などの私的なものがある。コモンウェルスに反対する組織、諸分派などは、主権者が人びとを保護することを妨げるため不正、違法である。
  • 主権者によって、ある業務において、コモンウェルスの人格を代表する公共的代行者が置かれることがある。例えば、属州の総督、税の徴収、司法権を与えられた裁判官などである。
  • 自然状態では、人びとはあらゆるものに対する権利を持っている。コモンウェルスの成立によって、臣民は他の臣民の権利を排除した所有権が確立する。主権者は、土地や貿易の割り当てを恣意的に分配することができる。
  • 命令は命令者自身の利益に向けれられたもので、忠告は忠告の相手の利益に向けられたものである。よい忠告を得るためには、忠告者と忠告の相手の利害が相反しないことが好ましい。また、忠告のためには経験が必要であり、精通しかつ省察してきた領域においてのみよい忠告ができる。合議の場で忠告を受けることは好ましくなく、望ましい決定を得るためには、個別に忠告を受けひとりで決定を下すことが望ましい。
  • 民法とは、コモンウェルスの主権者の臣民に対する命令であり、主権者が立法者である。法の本質は文字ではなく意図にあるため、法の運用には解釈を要する。法の解釈は主権者が任命する人(裁判官など)にのみ行うことができる。法には、理性に基づく普遍的な自然法と主権者の意志によって法にされた実定法がある。
  • 罪とは、法が禁止した行為の遂行、発言だけでなく、法を侵犯する意図、決意も含まれる。犯罪は、法が禁止した行為の遂行、発言であり、裁判官の論証の対象となる。主権者権力がなくなり、市民法がなくなると、犯罪もなくなる。
  • 処罰とは、法の侵犯に対し、人々の意志が従順へ向かうことを目的として、公共的権威によって課される害である。コモンウェルスが敵に対して戦争をすることは、自然法に基づき合法であり、臣民でない人に対する害は処罰ではない。
  • コモンウェルスは不完全な設立によって解体がもたらされる。例えば、絶対的権力の欠如や権力の分割はコモンウェルスの弱体化、解体の原因となる。
  • 主権者の職務は人民の安全の達成である。この安全とは、生命の単なる維持ではなく、合法的な勤労によって自己のものとして獲得する満足も含む。その目的の達成のためには、主権者はその権利を手放してはならず、人民を主権者に従順であるよう指導しなければならない。また、平等な租税、公正な裁判、人民の安全という善にかない意図がわかりやすい法の立法、自己の労働で自己を維持できない人に対する公共的慈恵などがある。