カズオ・イシグロと私

カズオ・イシグロノーベル賞

会社の同僚と飲みに行ったあと一杯気分で家に帰り、スマホをチェックしたら、タイムラインにカズオ・イシグロノーベル文学賞を受賞したというニュースが流れていた。無性にうれしくなった。ずっとカズオ・イシグロのファンだったし、彼の作品がノーベル賞に値すると信じていたけれど、今年受賞するとは予想していなかった。

カズオ・イシグロと私の出会い

カズオ・イシグロをはじめて読んだのは大学の英語の授業だった。

イギリスから来た先生の授業で、イギリスの新進作家の短編集のアンソロジーを読んだ。そのなかにカズオ・イシグロの短編小説があった。その先生が、カズオ・イシグロが日本語を話せるのかどうか、という話をしていた覚えがある。

大学の時の英語の授業には印象に残っているものがある。このイギリスの新進作家のアンソロジーの授業をきっかけにして、それ以来、カズオ・イシグロの新作はずっと追いかけている。そのほかにもアイルランドから来た老先生のジェイムス・ジョイスの「ダブリナーズ」を読む授業も鮮明に記憶に残っている。

カズオ・イシグロと私のそれから

最初に読んだカズオ・イシグロの長編小説は「日の名残り」だった。

カズオ・イシグロの文章は読みやすい。けれどもたくらみが深い。「日の名残り」のさらっと読むとかつて貴族の屋敷の執事の思い出話だが、注意深く読み込むと(ここでは種明かしはしないけれど)また別の様相が見えてくる。

そのあと、彼の長編小説は、初期作をさかのぼって読み、また、新作が出るたびに読んでいる。英語で読んだものもあり、日本語で読んだものもある。英語でも文章そのものはわかりやすい。文章が読みやすいけれど、内容が深い、というところは村上春樹にも通じるところがあるかもしれない。

彼の初期の長編「遠い山なみの光」「浮世の画家」は、日系人や日本が舞台だったりするが、「日の名残り」はイギリスの伝統的な社会を舞台としており、作者が日系人であることとまったく関係のない内容である。このことが、カズオ・イシグロが大きく飛躍する契機だったのだろうと思う。

「わたしを離さないで」は衝撃的だった。この小説は事前の情報をなく読んだ方がよいから内容は紹介しない。

日の名残り」と「わたしを離さないで」はぜひ読んで欲しいと思う。

「異端」の出自の作家たち

英語圏の文学では、「異端」の出自の作家たちがむしろ主流になっている。

トリニダッド島出身のV. S. ナイポール、日本出身のカズオ・イシグロノーベル賞を取った。英語圏の作家で次にノーベル賞を取るのはインド出身のムスリムサルマン・ラシュディかもしれない。

日本でも「異端」の出自の作家が登場している。リービ英雄はアメリカ、台湾、日本、中国を越境し、水村美苗は「私小説 from letf to right」で日本語、英語が混在した小説を書いている。

日本近代文学はもともと西洋の「小説」を日本語でいかにして書くか、という問題意識で成立した。初期の日本近代文学の小説家は、ほとんど西洋の言語が流暢だった(尾崎紅葉も英語で西洋の小説を読んでいた)。二葉亭四迷は「浮雲」を書くとき、ロシア語で書いたものを日本語に翻訳していた、という話もある。

日本近代文学はいわば「異端」の出自で成立したものであり、それが一周して英語圏の文学にもフィードバックしている。村上春樹が世界文学 のジャンルに参加しているのもその流れの一環なのだろう。

次のノーベル文学賞はぜひスティーブン・キングに!

去年のノーベル文学賞はディランで、今年はカズオ・イシグロというのは、すごくいい選択だと思う。

ノーベル文学賞は、世界の文学の多様性を紹介する、という意図があるように見える。これまでは地域や言語の多様性を広げてきたが、ディランへのノーベル文学賞の授与には、また別の方向性に向けて広げる、ということが感じられる。

そうであれば、エンターテイメント文学も文学の重要な一部を構成しているのだ、という意味で、次のノーベル文学賞は、ぜひスティーブン・キングに与えてほしい。