スポーツ界とハラスメント

スポーツ界の閉鎖性とハラスメント

最近、スポーツ関係の団体でハラスメントに関わる問題が次々と明るみになっている。

スポーツ界でのハラスメントが多発する構造的な原因のひとつは、チームの移籍が困難なことにあるのだろう。クラブチームであれば選択し、移籍することは容易だろうけれど、学校の部活であれば移籍は難しく、国の代表となると選手がチームを選ぶことができない。

ハラスメントは、逃げ出すことが難しい閉鎖的な環境での権力関係の中で生じる。その意味では、国単位、学校単位のスポーツは、特にハラスメントが生じやすい構造にある。もし、関係者がそのことに自覚的でないと、ハラスメントが生じる危険性が高い。そして、おそらくは、自覚的ではない関係者が多いのだろう。

オリンピックへの疑問

オリンピックへの疑問は多すぎて、簡単に書ききれない。ここでは、国単位で独占的に組織が作られている、という仕組みついて

オリンピック憲章には、オリンピックは国家間の競争ではなく、個人やチーム単位の競争だと書かれているそうだが、実に欺瞞的だ。オリンピックに関わる組織は、国単位の組織が連合して構成されている。個人が直接オリンピックにエントリーすることはできないし、チーム単位の競技では国単位でチームが構成される。

 以前、日本にバスケットボールのプロ・リーグが二つあると日本代表として国際試合に参加できない、とのことで、一つのプロ・リーグに、なかばムリヤリ統合されたことがある。しかし、なぜ、二つあると問題なのかまったく理解できない。二つのプロ・リーグから一つの日本代表が構成できれば問題ないはずだし、リーグごとに二つのチームが国際試合にエントリーしたってよいではないか?

人を閉鎖的に囲い込む環境と選択の自由

この問題は、スポーツ界特有のものではなく、人を閉鎖的に囲い込む環境共通の怖さだと思う。
最近、スポーツ界では声を上げられるようになってきたのはよいことだが、まだまだ声をあげられないことも多いだろうし、スポーツ界以外にも闇の多い分野、組織も多いはずだ。

また、声を上げるのは、声を上げる者に対する負担、リスクも大きい。そもそもハラスメントの罠に落ち込む前に、所属を容易に変えられる仕組みになっていればよかったのではないだろうか。選択の自由と具体的な選択肢の存在によって、パワーハラスメントを防ぐことができたのではないか?

陸上競技や水泳のように、客観的な基準で代表が選出される競技は、いわば人治ではなく法治なので、比較的パワーハラスメントは生じにくい仕組みになっているのだろう。
人治的にならざるを得ない競技でも、できるだけ法治的な仕組みを意識して導入すべきなのだろう。

人治と法治

これは自戒の念を込めて、だが、差別と同じで、権力は無自覚に行使しがちで、権力を行使される側の感じ方には思いが至らないことが多いと思う。

とはいえ、人治的なシステムで権力を握っている人が、自発的に権力を手放して法治的なシステムに移行することは稀なんだろう。そして、人治的なシステムで権力を握っている人は、自分はいいことしていると思っていて、事実、いいかとをしている部分もある。それ故に、法治の導入は難しくなる。

いろいろ考えてみて、解決策にたどり着かない。難しい…