「市場の倫理 統治の倫理」とドナルド・トランプ、ジョン・マケイン、そして、安倍晋三

「市場の倫理 統治の倫理」

 勤務先の会社で「社会科学研究会」という勉強会に参加している。この勉強会では、人文系の一般書を輪読している。今、行動経済学の本を読んでいるが、そのなかで、人間は合理的経済人として行動するだけではなく、社会的な倫理に基づいて行動する、そして、そのほうが望ましい結果がもたらされるという指摘があった。その一節を読み、ジェイン・ジェイコブズ「市場の倫理 統治の倫理」を思い出した。 

市場の倫理 統治の倫理 (ちくま学芸文庫)

市場の倫理 統治の倫理 (ちくま学芸文庫)

 

この本のなかで、ジェイコブスは、社会には「市場の倫理」と「統治の倫理」という二つの倫理体系があり、この二つを混ぜ合わせることで腐敗が生じると主張している。

ジェイコブスは、市場の倫理と統治の倫理の主な特徴を以下のようにまとめている。

市場の倫理
  • 暴力を締め出せ
  • 自発的に合意せよ
  • 正直たれ
  • 他人や外国人とも気やすく協力せよ
  • 競争せよ
  • 契約尊重
  • 創意工夫の発揮
  • 新奇・発明を取り入れよ
  • 効率を高めよ
  • 快適と便利さの向上
  • 目的のために異説を唱えよ
  • 生産的目的に投資せよ
  • 勤勉なれ
  • 節倹たれ
  • 楽観せよ

 

統治の倫理

  • 取引を避けよ
  • 勇敢であれ
  • 規律順守
  • 伝統堅持
  • 位階尊重
  • 忠実たれ
  • 復讐せよ
  • 目的のためには欺け
  • 余暇を豊かに使え
  • 見栄を張れ
  • 気前よく施せ
  • 排他的であれ
  • 剛毅たれ
  • 運命甘受
  • 名誉を尊べ

統治の倫理とジョン・マケイン

アメリカの上院議員ジョン・マケインが亡くなった。

ジョン・マケインは二回アメリカ大統領選挙に挑戦したが、一回目は共和党内の予備選挙ジョージ・W・ブッシュに破れ、二回目は大統領選挙で民主党バラク・オバマに破れた。しかし、上院議員として、特に外交、安全保障政策の領域で大きな存在感を示し、尊敬を集めていた。最近では、共和党員でありながらドナルド・トランプを厳しく批判している。

私は一貫して自分の信念にしたがって発言をする彼に敬意を持っていた。

www.bbc.com

市場の倫理と統治の倫理のリストを見ていると、ジョン・マケインは統治の倫理に忠実だったことがわかる。彼は政治家にふさわしかったし、大統領として仕事をしているところを見てみたかった。

ドナルド・トランプと市場の倫理と統治の倫理の混交

この市場の倫理と統治の倫理という観点からトランプを見ると、どうなるのだろうか。

彼は「ディール(取引)の名人」であると主張している。統治の倫理の第一番目に「取引を避けよ」とある。取引は自己の利益のためにするものだから、自己の利益を超えた理想を目指す統治の倫理とは相容れない。

マケインがベトナムの捕虜になったとき、著名な軍人の息子であることを知ったベトナム軍は彼に対して早期に釈放するという取引を持ちかけた。これに対し、マケインは自分より早く捕虜になった人より先に釈放されることを拒絶した。これは統治の倫理である「取引を避けよ」「運命甘受」「名誉を尊べ」といった項目に当てはまる。

それでは、トランプは市場の倫理に忠実だろうか。それも当てはまらない。例えば、「正直たれ」「他人や外国人とも気やすく協力せよ」といった倫理からは遠く隔たっている。
トランプはいずれにせよ何らかに倫理に従って行動し、生きている訳ではない。だから、典型的な意味での「市場の倫理」と「統治の倫理」の混交による腐敗ではないけれど、「統治の倫理」ではもっとも避けるべき「取引による自己の利益の追求」をしているという意味で、大統領として守るべき「統治の倫理」を守っていないということは明らかだろう。

個人的にトランプの行動でいちばん好きになれないのは、「名誉を尊べ 」といった自己の利益を超えた「高貴さ」を求めるところがないことだ。マケインともっとも相容れなかったのはそういったところなのだろう。一方、反ワシントン、反権威を求めるトランプ支持者は、そういった「名誉」「高貴さ」を踏みにじるトランプに痛快さを感じているのかもしれない。

そして、安倍晋三

安倍晋三は、マケインとトランプのどちらに似ているだろうか。

私は、自己の政治的な利害を追求し、それを超えた「名誉」「高貴さ」に関心が乏しい、それゆえ、底が浅く見える言動、行動が目立つ彼は、トランプタイプだと思う。

スポーツ界とハラスメント

スポーツ界の閉鎖性とハラスメント

最近、スポーツ関係の団体でハラスメントに関わる問題が次々と明るみになっている。

スポーツ界でのハラスメントが多発する構造的な原因のひとつは、チームの移籍が困難なことにあるのだろう。クラブチームであれば選択し、移籍することは容易だろうけれど、学校の部活であれば移籍は難しく、国の代表となると選手がチームを選ぶことができない。

ハラスメントは、逃げ出すことが難しい閉鎖的な環境での権力関係の中で生じる。その意味では、国単位、学校単位のスポーツは、特にハラスメントが生じやすい構造にある。もし、関係者がそのことに自覚的でないと、ハラスメントが生じる危険性が高い。そして、おそらくは、自覚的ではない関係者が多いのだろう。

オリンピックへの疑問

オリンピックへの疑問は多すぎて、簡単に書ききれない。ここでは、国単位で独占的に組織が作られている、という仕組みついて

オリンピック憲章には、オリンピックは国家間の競争ではなく、個人やチーム単位の競争だと書かれているそうだが、実に欺瞞的だ。オリンピックに関わる組織は、国単位の組織が連合して構成されている。個人が直接オリンピックにエントリーすることはできないし、チーム単位の競技では国単位でチームが構成される。

 以前、日本にバスケットボールのプロ・リーグが二つあると日本代表として国際試合に参加できない、とのことで、一つのプロ・リーグに、なかばムリヤリ統合されたことがある。しかし、なぜ、二つあると問題なのかまったく理解できない。二つのプロ・リーグから一つの日本代表が構成できれば問題ないはずだし、リーグごとに二つのチームが国際試合にエントリーしたってよいではないか?

人を閉鎖的に囲い込む環境と選択の自由

この問題は、スポーツ界特有のものではなく、人を閉鎖的に囲い込む環境共通の怖さだと思う。
最近、スポーツ界では声を上げられるようになってきたのはよいことだが、まだまだ声をあげられないことも多いだろうし、スポーツ界以外にも闇の多い分野、組織も多いはずだ。

また、声を上げるのは、声を上げる者に対する負担、リスクも大きい。そもそもハラスメントの罠に落ち込む前に、所属を容易に変えられる仕組みになっていればよかったのではないだろうか。選択の自由と具体的な選択肢の存在によって、パワーハラスメントを防ぐことができたのではないか?

陸上競技や水泳のように、客観的な基準で代表が選出される競技は、いわば人治ではなく法治なので、比較的パワーハラスメントは生じにくい仕組みになっているのだろう。
人治的にならざるを得ない競技でも、できるだけ法治的な仕組みを意識して導入すべきなのだろう。

人治と法治

これは自戒の念を込めて、だが、差別と同じで、権力は無自覚に行使しがちで、権力を行使される側の感じ方には思いが至らないことが多いと思う。

とはいえ、人治的なシステムで権力を握っている人が、自発的に権力を手放して法治的なシステムに移行することは稀なんだろう。そして、人治的なシステムで権力を握っている人は、自分はいいことしていると思っていて、事実、いいかとをしている部分もある。それ故に、法治の導入は難しくなる。

いろいろ考えてみて、解決策にたどり着かない。難しい…

おいしいアメリカ:オーガニックとクラフトビールとコーヒー

おいしいアメリ

夏休みのハワイ旅行で行ったレストランのなかでは、マウイ島の北側、パイアのほど近くにある"Mama's Fish House"が印象に残った。料理もおいしく、立地もよく、ホスピタリティもすばらしかった。

www.mamasfishhouse.com

身近にアメリカの良さを共有できる人が少ないいこともあり、「まずい」という強固なステレオタイプがあるアメリカの食のおいしさについて共感してもらうことがなかなか難しい。

しかし、実際にアメリカに行くたびに「おいしいアメリカ」を堪能しているし、日本でもアメリカ的な食を楽しむことが増えている。

オーガニックとクラフト・ビールとコーヒー

1990年代の初頭、はじめてアメリカに行った時、アメリカの食が一般的においしいとは言えなかった。個人的には、ダイナーの端が焦げたパンケーキと薄いコーヒーは好きだけれども、積極的に他人には勧められない。

しかし、徐々に改善が進み、特に2010年代に入ってからは劇的な変化があったと感じている。この変化を代表するのが、オーガニック、クラフト・ビール、コーヒーの3つだと思う。

ハワイにも、オーガニックを中心として全米展開する食品スーパーマーケットWhole Foods Marketがあり、地元のDown to EarthやMana Foodsという人気店もある。これらの店では、健康や環境配慮だけではなく、おいしさも追求されている。Farm to Tableを標榜するレストランも多く、”Mama's Fish House”では、魚を採った漁師さんの名前が書かれたメニューもあった。

最近、どの州でもクラフト・ビールを作るマイクロ・ブリュワリーがあり、多くの地元のレストランに置いてある。もともとアメリカの料理は、味が濃くてビールとの相性がよいものが多い印象があるが、ビールの選択肢が増え、ビールと食を組み合わせる楽しみが一気に増えた。ビールは鮮度がよい方がおいしい「生鮮食品」だから、大規模なビールメーカーより地産地消に向いていると思う。

そして、町のそこかしこに、おいしいコーヒーを出してくれるインディペンデントのカフェが普通にあるようになった。いわゆるサードウェーブコーヒーは、大企業が仕掛けた一時的な流行ではなく、地に足がついたものだと思う。

ヒッピー文化と多様性

オーガニック、地産地消クラフトビール、サードウェーブコーヒーといった最近のアメリカの食の傾向には、やはりヒッピー文化が底流にあると思う。個人的には、ヒッピー文化にはあまり惹かれないけれど、今のおいしいアメリカは、彼らの文化抜きではありえなかったことは間違いない。

たまに、アメリカのさまざまな起業家へインタビューするポッドキャスト"How I Built This"を聞くことがある。起業家の中で、ヒッピーの両親に育てられた、とか、コミューン育ち、とか、かなり特色のある環境で生まれ育った人たちがいて、彼ら自身はヒッピーではないとしても、その個性ある感覚、世界観、人脈を生かして、特色あるビジネスを立ち上げていたりする。

www.npr.org

多様性の価値、というのはこういうことなのだ、と思う。

おいしいアメリカと階級

Whole Food Marketは高級スーパーという位置づけで、そこで売られているオーガニック食品は高くて、ウォルマートとは客層が違っている。クラフトビールは、もちろん、バドワイザーより高いし、サードウェーブのコーヒーは、ダンキン・ドーナツより高い。

前回のブログで、英語の能力とカースト・階級差を感じるということを書いたけれど、最近の「おいしいアメリカ」も、ある一定の階級以上が享受している、という印象はある。

ハワイと英語と私

ハワイ旅行の至福

今年の夏休みは、久しぶりにハワイへ旅行した。マウイ島とオワフ島に滞在した。南の島とアメリカが好きな私にとって、完璧な旅行先である。

今年の東京の夏は暑さがとりわけ厳しかった。気候が快適なハワイに行くのは、一種の避暑でもある。東京では、暑すぎて外を走る気にならなかったけれど、ハワイで日の出とともにビーチに沿って海を眺めながらランニングするのは至福だった。

英語に打ちのめされるとき

現在の部署では、業務でアメリカに出張することはないけれど、数年に一回はアメリカ旅行をしている。その時、英語が障害になる。

サバイバルをするには問題はないけれど、相手の言っていることがすぐに理解できなかったり、私の言っていることが通じなかったり、表現したいことが十分に表現できなかったり、その結果、物事が思うように進まず、相手がコミュニケーションを放棄したりする。

そういうとき、強いストレスを感じる。そのようなストレスが積み重なると、英語に打ちのめされて、英語から逃避したくなる。

スピーキングの強化

自分の英語力を評価すると、四技能のなかではやはりスピーキングが劣っている。リスニングとリーディングは自習がしやすいし、ライティングはしばらく英語でブログを書くことで強化できた。これに比べると、日常生活のなかでネイティブと英語で話す機会がほとんどないのだから、スピーキングが劣っているのは当然である。

とはいえアメリカが好きであるにもかかわらず、英語で打ちのめされてるのは、残念なことだ。ここ1年ぐらい、少しずつ英語のスピーキングの強化を進めている。

まずは、ここの母音、子音レベルの発音の矯正、単語の発音の練習からスタートし、英語のセンテンスがなめらかにでてくるように、そして、センテンスの組み立て、会話の展開へ練習を進める計画をしている。現在は、センテンスレベルの練習をしているところである。

しかし、基本的には自習をしているので、実際に自分のスピーキングが向上しているのか把握できない。今回のハワイ旅行で英語を話してみて、以前に比べて聞き返されることが減って、自分の発音が矯正されていることが確認できて、嬉しかった。

いくつか用意している構文であればよいが、それから外れたことを話そうとするととたんに言いよどんでしまう。しかし、発音が向上しているのは確実な進歩だし、この方向で進めば英語のストレスも軽減される希望が持てた。前述のように、以前は英語に打ちのめされて逃避したくなることが多かったけれど、今回はさらに学習を進めようというモティベーションを高めることができた。今回の旅行の大きな収穫の一つだと思う。

TOEIC Speaking & WritingとSkypeレッスン

今後の英語のスピーキング学習の計画としては、まず、現状の実力を計測するために、TOEIC Speaking & Writingを受験してみようと考えている。

もちろん、TOEIC Speaking & Writingがスピーキングの能力をどこまで測れるのか疑問はある。しかし、自習スタイルで学習を進めていると、自分の進歩が把握できず、それがモティベーションを低める原因にもなる。不完全なテストであっても、自分の進歩を測るためのベンチマークには十分だろう。

そして、やはりネイティブと実際に会話をする量を増やすことは必要だ。素振りだけでは、クラブの芯でボールを捉えるようにはならない。時間を確保するのが難しいけれど、Skypeでの英語のレッスンを始めようと思う。

英語能力とカーストと階級

自分の英語の能力からは話題が外れるが、アメリカに行くたびに、英語能力によるカーストがあり、それと階級が結びついていると感じる。

アメリカの社会は、英語が話せない人も当然のように社会の構成要員として取り込んでいる。しかし、英語の能力が不十分であれば、職業の選択が限定されている。英語を話せない人たち固有の職業がある、それが階級と結びついている。

Uberの運転手は、英語をまったく話せなければ無理だが、英語能力が限定されていてもやっていくことができる。しかし、Uberのなかで運転手をランク付けする機能があるが、その得点と英語能力には相関関係があるように思う(Uber社内では、そのようなな運転手の属性とランクの関係を研究してそうだ)。

例えば、私が利用したUberのなかでほとんど5点に近い運転手がいた。彼は、ニューヨークからハワイに訳あって移住したという人で、おそらく大学以上の教育を受けたインテリだった。ネイティブとしての発音で、やや複雑な内容の話をすることができる。やはり、このような英語でのコミュニケーションの能力があることで、Uberのなかでも上位者になる。

自分はアメリカ社会で生活していないから、英語能力によるカーストに組み込まれる訳ではない。しかし、観光客であっても、英語能力によって扱いが違ってくるということは実感する。より楽しむためには、一定の英語能力を身に着け、自分がそう扱われたいと思う扱いを獲得する必要があるだろう。

もう少しがんばってみようと思う。

苦手なことに挑戦する

そして苦手なことが残った

ここ数年体調がよいこともあり、いろいろなことに挑戦している。フィジカルに関する挑戦とインテリジェンスに関する挑戦に大別できる。

フィジカルに関する挑戦としては、ランニング、トレーニングによる身体づくり、ゴルフがある。ランニングでは、今年のはじめにハーフマラソンを完走し、今年の後半にはトレイルランに挑戦する計画だ。トレーニングでは、タンパク質をしっかり摂取しながらジムに通って筋力トレーニングをしている。ゴルフは、ここ数年来、100を切ることを目標にしていて、今は個人レッスンに通っている。

インテリジェンスに関する挑戦としては、語学(中国語、英語、広東語)と会計の学習をしてきた。会計は簿記二級に合格して一区切りがついた。語学は毎日少しずつ学習している。

今年に入って感じていることは、自分が得意で比較的かんたんに上達できる分野は概ね目標を達成してしまい、残されたのは、苦手な分野だったり成長のスピードが鈍ってきたりで成果や成長実感が感じにくい分野ということだ。

英語でいえば、リーディングやリスニングは比較的得意なので、TOEICは高得点が取れた。今は、苦手なスピーキング(発音や会話など)に取り組んでいるが、そもそも自分の能力の現状にがっかりするし、上達も遅々として進まない。

中国語も、初級の間は上達が見えやすいし、ちょっと通じただけで楽しいけれど、最近ではそろそろ中級に入り、本格的に語彙を増やさなければならない段階になり、これも短期的には上達を実感することが難しい状況にある。

トレーニングをしていても、多少は体型が変わった実感はあるが、変化は微々たるものだし、より重い重量が持ち上げられるようになったわけでもなく、体組成計で計測した筋肉量はあまり増えていない。年齢や体質を考えると、筋肉がつきにくいのだろう。

ゴルフも、徐々にフォームの改善は進んでいるようだが、フォーム改善の途上にあるので、まだ芯にあたる確率が高まるところまでは行かないし、飛距離もさして伸びていない。

成長実感を動機に使えない辛さ

なにかに挑戦する時、これまでできなかったことができるようになる、ということがいちばん楽しい。そして、それが動機となって取り組みに熱が入って、さらに新しいことができるようになる。こういう好循環に入ることができれば、楽しい上に成果があがって言うことはない。

しかし、こういう好循環が永遠に続くことはない。収穫逓減の法則によって、成長スピードは鈍化する。やってもやっても成長が実感できないと、挑戦することが苦しくなってくる。しかし、一方で、時間をかければ少しずつでも成長できるはずだという思いもあり、かんたんに投げ出す気持ちにもなれない。

挑戦そのものを楽しむこと

「嫌われる勇気」の著者である岸見一郎の主張には共感することが多い。彼は、高齢になってからの「挑戦」について、次のように語っている。

アドラーがいうところの「不完全である勇気」を持てないからです。新たなことに挑戦すると、「できない自分」「不完全な自分」であることが露呈するかもしれない。そんなことにはとても耐えられないから、高齢であることを理由に、初めから「できない」と決めつけてしまうのです。

…歳を取ってから行う勉強では、目標や到達点を設定する必要がありません。第三者による評価や時間の制約から離れて、自由に勉強できるわけです。勉強が手段ではなく目的になり、純粋に、学ぶ楽しさや喜びを味わうことができる。これこそが老いてから勉強することの醍醐味であり、それが生きる喜びにもつながっていきます。

www.minnanokaigo.com

うまくできない、という不完全な自分を認めるのは、なかなか簡単ではない。それを認めたくないからこそ、成長することを目指して挑戦をし、成長したときの喜びが大きいという側面もある。

上記の通り、挑戦初期は上達するスピードが速く、成長実感を動機に利用できるが、それは徐々に鈍化してくる。そうなってくると、やはり「上達が遅い」という不完全な自分を認め、続けること自体によろこびを見出すようにシフトチェンジすることが必要になるのかもしれない。おそらく、そのようにシフトチェンジをして挑戦を続けることで、振り返ってみると結果として成長していた、ということもあるのだろう。もちろん、成長自体を目的としなければ、成長していなくたって挑戦のプロセスを純粋に楽しめばいい。

私の場合、ランニングはより速く、より長く走れるようになりたい、という成長意欲が強く、練習ではいつもタイムを計測しているし、目標とする大会にエントリーもする。一方、水泳では、成長意欲がなく、ただ泳ぐのが気持ち良いから泳いでいる。タイムを測ることもなく、自分が気持ちのいいスピードで淡々と泳いでいる。ランニングも時計を外して気持ちの良いペースで走るようになれるといいかもしれない。

私には、語学の学習そのものが好き、という気質はある。しかし、語学を習得することによって実用的に役立てたいという気持ちも当然ながらある。だから、上達は度外視して学習だけしていればうれしい、という境地にはなかなかなれない。好きでやるのであれば、得意分野だけをやっていればいいけれど、実用を考えれば苦手分野の補強も必要になる。

なかなか挑戦そのものを純粋に楽しむ境地には至れないことが多い。

得意分野に集中すること、辞めることも一つの選択肢だが

もちろん、誰かにやれと言われて挑戦している訳ではなく、自分が思い立って挑戦している。だから、いつ辞めても、困る人もいない。

だから、成長が鈍化した挑戦は辞めて、得意分野に集中することも人の選択肢ではある。しかし、なにか割り切れない気持ちになる。

西日本豪雨と地球温暖化

西日本豪雨地球温暖化

先般の西日本豪雨で、200人以上の死者がでたとの報道があった。

www.asahi.com

梅雨末期の集中豪雨で、九州、四国、中国地方にかけて毎年のように水害が発生している。しかし、今年の被害は特に大きかった。

私は「地球温暖化」の影響で水害の規模が大きくなっているのかな、とふと思ったけれど、思いのほか西日本豪雨地球温暖化を結びつける報道が少なかったように感じている。最近、「地球温暖化」は流行っていないのだろうか。

地球温暖化問題懐疑派

私は「地球温暖化」問題について、大雑把に分類すれば「懐疑派」に入ると思う。

地球温暖化」という現象自体は進行しているのだろうと考えている。しかし、その原因についてはかなり複合的な要素が多く、解明されていない部分も多いと思うし、また、「地球温暖化」を原因としている自然現象もどこまで因果関係が明確なのか眉につばをつけなければと思っている。

地球温暖化の進行は、人間の知覚にとってはかなりゆっくりとしたスピードで進むため、なかなか実感として感知しにくい。

例えば、地球温暖化が進行することで降雨強度が増加することが指摘されている。

地球温暖化が進行し、気温が上昇することで、大気中に含まれる水蒸気量が増加することから、降水強度が増加すると予測されている。

このように降水強度が増すことで、現在、たとえば「300年に1度」の頻度で発生する豪雨が、「100年に1度」の頻度で発生するようになるなど、これまでの想定に比べて高頻度化することが予測されている。

平成28年版 防災白書|特集 第2章 第2節 2-2 自然災害への影響 : 防災情報のページ - 内閣府

 しかし、「300年に1度」の頻度で発生する豪雨が「100年に1度」の頻度で発生するようになることを、人間は知覚することができるのだろうか?今回の私のように大きな水害が発生するとすぐに地球温暖化を連想してしまうが、その一回の大きな災害だけでは地球温暖化の影響で頻度が高まっているかは判断できない。一方、少しずつ豪雨の確率が高まっていっても、人間はそれを知覚することは難しいだろう。

だから、地球温暖化の影響に関しては、人間の実感はあまり当てにならないし、長期的なデータの解析からしか明らかにならない。

一方、地球温暖化に関わる研究をしている研究者のなかには、さまざまな減少のなかから地球温暖化を原因として取り上げたくなるバイアスがかかっている人がいる、という印象を持っている(すべての研究を否定する訳ではないが)。

風水害による死者、行方不明者の推移

最近、水害の被害が増えているような気がする、という自分の印象を検証してみようと思い、水害被害の推移のデータを探してみたところ『防災白書』に風水害による死者、行方不明者の推移のデータがあった。

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実線が各年の死者、行方不明者、点線が回帰直線である。平成5年からのデータであるが、これを見る限りは近年風水害の被害者が急増しているとは言えない。もちろん、今年のデータが入れば、回帰直線は多少右肩上がりになるだろうけれど、今後の推移をみなければ増加傾向かどうかは判断が難しいだろう。

独学の方法

学習はすべて独学

野口悠紀雄が「独学」について書いていた。この記事は共感することが多い。

president.jp

「勉強をする」というと「学校に通って教えてもらう」ということを連想する人が思いのほか多い。何かを学ぶための手段はさまざまあり、その中の一つに「学校に通って教えてもらう」というものもあるが、最終的には自分自身が習得するプロセスがあって、そこは「独学」になると考えている。だから、あらゆる学習は最終的には独学に帰着する。

本の学校教育についてさまざまな批判がある。特に、英語教育に対する批判が多い。しかし、私はそのような批判を読むたびに違和感を感じる。バイリンガルではなく第二言語として英語を習得し、実用的に使っている人であればほぼ共通の感覚だと思うが、教室の中での学習だけでは実用的な語学の習得はできないし、だからといって教室での学習が語学の習得に役立たないということもない。

もちろん、日本の学校教育における英語教育があらゆる意味で理想的だとは思わない。しかし、英語を習得するには、教室の外での「独学」が必須である一方で、教室の中の学習は「独学」をする上でほぼ確実に役立つ。日本での英語習得が進まないのは、学校教育の問題と言うよりは、英語学習の「独学」する動機づけが乏しいところに主要な原因があると思う。

簿記2級の学習方法

今さらながら、財務諸表が読めるようになりたいと思い、簿記3級、簿記2級を受験することで、そのプロセスで会計を学習した。

独学のパターンをいろいろ試してみたいと思い、簿記3級は参考書と問題集を使って完全な独学、簿記2級はフォーサイトという会社の通信教育を使ってみた。それぞれ合格できたから、効果があったとは言える。

www.foresight.jp

このフォーサイトの通信教育は、教科書、講義の動画、過去問を編集した問題集、クイズができるアプリから構成されている。前半の期間は教科書を読みながら講義の動画を見て、後半の期間は問題集をひたすら解いていた。今風の通信教育なので、講義の動画はDVDも送られてくるが、スマホでウェブ上の動画を見ることができるし、教科書、問題集も電子ファイルでも提供される。

簿記の場合、かなり定型的な知識とそれの応用が主体なためか、あまりインタラクティブな要素はない。問題集の採点は、正答と解説を読めば自分できるため、採点サービスは提供されていない。また、私は利用しなかったが講師へ質問できるサービスはあった。

簿記3級の完全独学と比較すると、後半の問題集を解く部分はあまり差がなかったように思う。前半の講義の動画は、完全独学でテキストを読んでいたときと比較すると、会計の体系の全体フレームワークの理解という意味で優れていたように思う。完全独学では、細部の理解はできてもそもそも会計の全体像とはなにか、という部分の理解が進まなかった。その点が、完全独学と比較したときの通信教育のメリットと思った。

教師ではなく、コーチがほしい

独学を主体に考えると、細かい知識の習得の部分は本を読めばいいように思うし、自分の習得度を計測するには問題集を解くことで把握できる。大きな枠組み、メタな部分を習得するところで、人の介在が必要のように感じる。

あと、独学をしていてほしいと思うのは、知識を教えてくれる教師ではなく、独学の方法自体を自分の能力、状態をみつつコーチしてくれる人だ。自分の習得状況、得意不得意などを自分で計測する方法はなくはないけれど、コーチしてもらえた方がよいと感じることも多い。

最近、ライザップが英語学習に参入したことが契機になったのか、いわゆる英会話学校ではなく、英語学習のコーチングを標榜するサービスが続々と登場しているようだ。潜在的に教師ではなく、コーチを欲していた独学者が多かったのだろうなと感じる。