大原三千院

高校の時の、奈良京都への修学旅行の記録。

大原三千院
今回の修学旅行で行った所の中で、いろいろな面で印象的であったのは大原三千院でした。
三千院には、五日目の朝一番で行きました。僕個人の趣味では、一年の中で冬の朝という時間帯が一番好きなのです。あの身が引きしまる感じがたまらない。ところでその三千院には、その冬の朝という最高の時間帯で、その上建物の屋根には雪がつもっていました。木々は紅葉の最盛期でした。この雪と紅葉という組み合わせは、今回初めて見たものですが、まさに筆舌につくしがたいものでした。あたりは平日の朝のために、我々の他には人がいなかったために、恐ろしいぐらいに静まりかえっていて、目に見えない糸でもはりめぐらしていて、声を出すのもおこがましいたたずまいでした。
そのようなたたずまいの中に、しずしずとお坊さんが数名登場して来ました。そこで、読経を開始しました。まず僕が持っていた読経のイメージを書きます。まずご老体の坊さんがいます。目の前には白い布がかかった棺桶が一つ。黒白写真が黒いわくに入っている。バックにはスローなけだるい木魚の音が流れていて、しみったれた声でお経を読む、という場面が脳裏に浮かびます。一口で言えば「陰鬱」。しかし、三千院の読経は全くちがうものです。まず木魚のテンポが非常に早い。その早いリズムにのせてお坊さんが実にハリのあるいい声で読経をするのです。三千院のお坊さんによるカラオケ大会でもやったら全員異常に歌が上手なのでしょう。お坊さんの声のよさもさることながら、読経の方法も一番えらそうな人がソロをとったり、全員でコーラスしたり、一種独特のふし回しをつけたりして、お経を読むというより歌い上げるという感じでした。その歌のような読経は三千院のたたずまいにフィットしていて厳粛でかつさわやかなものでした。「さすがに読経のプロフェッショナルなのだなぁ」と素朴に感動してしまいました。そのような読経を聞いていると、読経は昔、キリスト教の賛美歌のように、そこらのあんちゃんねえちゃんもお寺に集合して読経のコーラスでもやっていたのではないだろうかと思わされました。
思えばあの三千院の雪の朝からもう半年も過ぎてしまいました。今は五月も下旬。木々も青々とし、汗もうっすらとにじむ季節が回って来ました。もうすぐ梅雨がやって来て、夏になり、そしてまたあの秋が来るでしょう。こんな風に、僕の近くでは時間はあまりに速く流れて行きます。そしてあの三千院の朝の記憶すらその流れの中で色あせてしまいます。しかし、あの三千院ではあの雪が降り積もり、木々は紅葉し、読経の声が聞こえるあのあの朝で時間の流れも氷ついてしまって、今もあの朝のままのになっているように思えてしょうがありません。いや、平安の昔から氷りついてしまっているようにすら思えます。
このような体験をするのは、非常にまれなことです。それも、修学旅行委員をはじめ多くの人びとのおかげと思い、非常に感謝しています。ありがとうございます。そして、おつかれさまでした。

ずいぶん今の作文に近づいてきた。けれども、おもしろくしようと考えた喩えが、月並みでいやらしく、鼻につく。