陛下

しばらく雨がつづいていたけれど、今日は、久しぶりにきれいに晴れた。
駅から家まで歩いている途中、オレンジ色の金木犀の花が咲いているのを見つけた。
金木犀の香りをかぐと、久世光彦「陛下」(新潮文庫)(ISBN:4101456240)を思い出す。金木犀の香りにつつまれながら、剣持梓のなかでは場末の芸者の弓と陛下が渾然一体となるのである。

 その月の光に、何かが光った。ギラリと光った。梓の目が大きく見開かれる。枕許から一尺も離れていない畳の上に、抜身の軍四郎兼光が、蛇のように寝ている。弓の気紛れである。梓の頭の中が赤く燃えた。絖りを帯びた切っ先に、蒼い月の光が集まって、辺りが白々と輝いて見える。と思う間もなく、白光の塊が弾けて飛び、代わってそこに眩いばかりの落日に染まった金木犀の大樹がそそり立つのを梓は見た。その赤に灼かれて、梓の血が滾る。梓は、驚いて目を瞠る弓の体を大きく裂き、凶暴なばかりに漲ってきた力で弓を刺した。弓が、いままで聞いたことのない鋭い声で、高らかに啼く。梓も、天に懸けられた紅の階段をまっしぐらに駆け上がっていった。軍旗が風にはためく音が、梓の耳元で激しく鳴る。女と寝て、こんないい気持ちになったことが、かつてあっただろうか。梓は泣いていた。涙の粒を夜の中に撒き散らし、栄光の軍旗を高々と押し立て、梓は幻の金木犀に向かって吶喊した。−そして、五歳の秋の日の、夢の芳香に噎せながら、「花廻家」中に響く声で、叫んだ。
「陛下!」

金木犀の香りをかぎながら、自分も「陛下!」と叫んでいる。