ゲーム感覚

ヤンキース対ツインズ戦のあと、大統領選挙のテレビ討論の中継があった。
発言時間などに細かいルールを設けて、なるべく平等の条件になるようにしたうえで、ディベートをし、そのあとすぐに、どちらが勝ったかを判定するための視聴者の調査をする。どちらが大統領にふさわしいか知るということよりも、ゲーム性が優先されているようで、これもひとつのアメリカの文化ということが興味深かった。どちらがディベートに勝ったか、ということには関心はわかないけれど。
ジョージ・W・ブッシュについては、いつもと同じシンプルな主張、いつもと同じような態度だったから、今日のテレビ討論から彼について新しい情報が得られるということはほとんどなかったと思う。アメリカは偉大な国であり、911以降はアメリカは戦争状態にあり、アメリカの安全のためにはいくらでも資金を投じて必要なことを行い、アメリカを危険にさらす敵に先制攻撃を加えて安全を守る必要があり、サダム・フセインは危険な敵であり、彼を政権から排除されて世界はより安全になった、というのが相変わらずのブッシュの主張だった。
だから、テレビ討論では、ケリーについて新しい情報を得ることが重要なのだろう。ブッシュと比べると、話が複雑でわかりにくいところがある。それは、決してマイナスなこととは言い切れない。アメリカの大統領が直面する問題は複雑で、簡単に解決策が見つかるというものばかりではないはずだ。しかし、ブッシュは、常に、シンプルな信念に基づいてシンプルな解決策を求め、彼は確信を持ってシンプルに話す。一方、ケリーは、簡単に結論を述べることは少ない。こういった条件の下では、このような結論になるという話し方をする。だから、ブッシュに比べるとケリーの話は複雑でわかりにくいことになる。
ブッシュの話のなかで印象的だったのは、仮に、ヨーロッパから人気がない政策であっても、必要があれば実行しなければならない、というところだった。
ジョージ・W・ブッシュの立場はきわめて明確である。彼に係わると、ブッシュ支持か、アンチ・ブッシュかの二つの立場をとらざるを得ない。今回の大統領選挙も、ブッシュ支持対ケリー支持ではなく、ブッシュ支持対アンチ・ブッシュという選択のように見える。そう考えれば、ケリーの存在意義は、アンチ・ブッシュということであり、アンチ・ブッシュの主張をしさえすれば、その内容やケリー自身の人柄、資質はあまり問題でないのかもしれない。
投票する側から見れば、ブッシュ支持かアンチ・ブッシュかということにはあまり迷う要素はないように思える。だから、大統領選挙の大勢はおおむね決まっており、テレビ討論は選挙という儀式の中のひとつのゲームに過ぎないのかもしれない。