相変わらず長い引用

いつも長々と引用しているけれど、今日も、いつもに輪をかけて長い引用をしたいと思う。
自分も、ほかの人が書いた本やウェブサイトを読む時、引用部分は読みづらく、読み飛ばしてしまうことが多い。だから、引用が読みづらいということはわかっている。けれども、今日、引用するところは、読みづらいということはわかっていつつも、それでもなおぜひとも引用したいと思った。それだけの価値のある文章だと思う。
引用する文章は、河盛好蔵の「静かなる空」というエッセイの一部である。それも、河盛好蔵の著作から直接引用するのではなく、江藤淳「一九四六年憲法−その拘束 その他」(文春文庫)(ISBN:4167366096)からの引用になる。
このエッセイは、太平洋戦争の直後に書かれ、「新女苑」という雑誌に掲載予定だったが、進駐軍の検閲によって掲載禁止になったものだという。江藤淳が、戦後の進駐軍による検閲を研究するために、米国で関連資料の調査をしている過程で、検閲を受けた書籍、雑誌のなかから発見したものだという。

 私事に亙ことを許されたいが、私の弟は中小商工業者統制の際に永年心魂を傾けてきた家業を取り上げられて、一介の薄給のサラリーマンに転落し、過労のため胸を病み、実にその唯一の財産ともいふべき住居は強制疎開で取り払われ、かろうじて移り住んだ家はB29の爆撃のため焼失し、そのために病気は益々悪化し、遂に先月末に避難先の北陸の一寒村で三十五歳の短い生涯を終つたのである。彼は臨終の際に私の手を握つて、「どうして僕はこんなに運が悪いんだらう」と慟哭したが、もし彼が健康体であつたなら、もつと早く戦場で骨を埋めてゐたに相違ない。これは僅か一例にすぎぬ。現在の日本には、これと比較にならぬ悲惨な事実が多数に存在するに相違ない。
 私たちは何故にかかる人間として堪え難い不幸を経験しなければならないのか。それは誤れる侵略的帝国主義軍国主義の指導者が愚劣極まる第二次大戦を始めたからに他ならぬことは勿論ではあるが、更には、過去廿年間に亙る我国の社会的、経済的窮迫や、精神的苦悶に対して、世界の強国、特に東亜に於いて我国と利害を共にする英米両国が積極的な友情に富んだ理解の手を差しのべてくれなかつたことにも基くものではないだらうか。私はこのことを切にアメリカの知識人諸氏に訴へたいのである。
 第二次大戦中、我々日本人は世にも野蛮な、残忍な民族としてアメリカ中に大々的に宣伝された。さうしてこれにはもちろん充分な根拠のあつたことは遺憾ながら私たちは率直に承認し、深く頭を下げなければならないが、それと共に、私たち誠実な日本の知識人が過去廿年に近い歳月、いかに深刻な物質的精神的苦悩を戦つてきた文化人であつたかについての理解が殆ど全く見られないのは何よりも残念なことに思はれる。このことは第一次大戦以後の日本の精神史、思想史がアメリカに紹介されることによつて漸次明らかにされてゆくに相違ないが、そしてこの点にちうて私は我国の思想家や哲学者に期待するところは実に大きいのであるが、願はくばアメリカの知日派の人々が、単に過去の日本をよしとせらるるのみならず、また軍閥が全盛を誇つてゐた時代の日本が例外的な暗黒時代であると性急に結論されることなく、それらを通じて一貫する日本的なるものを理解するために、日本精神史の更に一層に深い研究に足を踏み入れられて、なに故に第二次大戦が始められなければならなかつたか、もしその必然性に仮りにあるとすれば、それはいかなる所に存在するかを虚心に究明されたいと切望してやまないものである。

日本から他の国を見るとき、同じようなことはないだろうかと考える。例えば、北朝鮮。いま、日本では、不可解で野蛮で残忍な国として報じられている。それにはもちろんそれ相応な根拠があるのだろうけれど、その一方で、北朝鮮にもふつうの生活もあり、「深刻な物質的精神的苦悩を戦」っている人もいるにちがいない。ともすれば、そのような事実を語る声はかきけされがちで、日本から「友情に富んだ手を差しのべ」ることもない。
最近文庫化された古田博司朝鮮民族を読み解く―北と南に共通するもの」(ちくま学芸文庫)(ISBN:4480089039)は、時事的な内容ではないけれど、北朝鮮の実像についてわかりやすく語っている。日本の国益という考え方も重要だけれども、もうすこし、相手の国に住んでいる人たちについてまともに考える手がかりがないものかと思う。
最近の中国の反日運動を見ていると、中国の共産党政府とつきあうのは難しいという感想を持ってしまう。共産党政府は、彼らにとって都合のよいステレオタイプで日本をとらえ、日本の実像を見ようとしないように思える。実際は、日本の実像を深く理解しているのかもしれないけれど、すくなくとも、公式の発言ではあくまでもステレオタイプとしての日本に基づいている。
ブッシュ政権に対しては、日本でもさまざまな批判はあるけれど、中国の共産党政府と比べれば、日本と米国ははるかに「腹を割って」つきあえる相手で、信頼できる。このままでいけば、日本ではますます親米、嫌中の傾向が強くなり、それに対応して中国は反日の傾向を強め、日本と中国の溝は深まるばかりになりそうだ。
共産党政府が日本の実像を見ないのは、おそらく確信犯だろうから、日本の実像を理解してもらって「腹を割った」つきあいをする期待は持てそうにない。しかし、中国の人たちとの相互理解はもうすこし深めることはできないのか、また、「友情に富んだ手を差しのべ」あうことはできないものかと思う。