興行会社

小川直也「対橋本真也戦闘魂録「反則ですか」」(アミューズブックス)(ISBN4906613519)によると、アントニオ猪木はプロレスに入ったばかりの小川直也に「プロレスとは何だ?」と問いかけたという。小川がすぐに答えられずにいると、猪木は「興行会社なんだよ」と言ったという。至言である。たしかに、プロレスの本質は興行にある。興行なくしてプロレスはあり得ない。
大相撲(ここでいう「大相撲」とは、日本相撲協会を中心とした部屋などを含む組織とその興行を指し、実業団や学生相撲などの「アマ相撲」や神社などで祭礼として行われているさまざまな相撲は含まない)には、伝統芸能、スポーツ、武道とさまざまな側面があるけれど、その本質は興行にあるのではないか。
例えば、神社の祭礼は、興行的要素はあるけれど、興行として成立しなくても祭礼は祭礼として行われるだろう。高校野球は、興行としても大きな成功を収めているけれど、仮に、観客がまったくいなくても選手権は開催されるだろう。また、伝統的な武道は、そもそも公開された試合を行わず、道場のなかだけで武術を磨いているものも多い。
しかし、現在の大相撲のシステムは、興行が成り立たなくなれば、失われてしまうだろう。そういう意味では、大相撲は、客が入って、タニマチがついてこそ「なんぼのもの」であり、それ以外の要素は、興行を成り立たせるための手段、道具といえる。
大相撲を見ているファンは、どこまで真剣勝負を求めているのだろうか。元関取の板井の告発以降、あからさまな八百長は減っているという話を聞く。板井は、相撲界を再生させるために告発している、という意味のことを言っているけれど、実際には八百長が減ったからといって相撲人気が高まったわけではない。大相撲の観客は、真剣勝負かどうかを詮索しようという気持ちはあまりないのではないだろうか。もちろん、大相撲の生命線はNHKの中継にあるから、それが取りやめになってしまうような事態はぜったいに避けなければならないが。
八百長という言葉は、あらかじめ勝敗を決めた取り組み、試合という意味で使われているが、興行という観点から見れば、興行に役立つ八百長と興行に役立たない八百長の二種類に分けることができる。
プロレスの試合は、あらかじめ勝敗が決まっているという意味では八百長である。基本的には、勝敗は、興行を取り仕切る主体が決めるものだから、プロレスの八百長は、原則、興行のための八百長ということになる。極端な言い方だけれども、武藤敬司は、結末がわからないものを提供する格闘技の興行は観客に失礼だといっている。これは、プロレスにおける八百長の意味をよく現している。こういった八百長は、もはや不正を意味しないから、八百長という言葉を使うのはふさわしくない。筋書き、ストーリーとでも呼ぶべきものだろう。プロレスの世界では、アングルという言葉を使うようだ。
一方、大相撲はどうであろうか。元関取の板井が告白しているような、力士同士の合意による八百長は、興行全体とはかかわりがなく、興行に役に立たない、もしくは、興行と無関係な八百長ということになる。大相撲に、興行としての八百長、つまり、ストーリー、アングルはあるのだろうか。これはよくわからない。板井の告発には、アングル、興行のための八百長については含まれていない。
今、問題になっている、貴乃花若乃花の優勝決定戦の「八百長」はどちらだろうか。貴乃花は、若乃花横綱にするための工作、すなわち、不正としての八百長だと理解しているようだ。そして、若乃花は、不正に横綱になったのだから、横綱としての資格はないと考えている。
貴乃花に負けることを示唆した二子山親方はどう考えていたのだろうか。また、この「八百長」は、相撲協会のなかで、どこまで関わりがあったのだろうか。あくまでも、二子山部屋のなかの話だったのか、若貴横綱を誕生させることで、興行を盛り上げていく意図があったのだろうか。
この話は、結局は藪の中である。これ以上書くのはやめようと思う。
日本のプロレスは、大相撲の鬼っ子ようなものである。プロレスの衰退と格闘技興行の隆盛を見ていると、大相撲の問題点も見えてくるように思う。
プロレスの興行スタイルは、本場所である大都市の大会場での興行と地方巡業に分かれている。これは、まさに、大相撲の興行方式を取り入れたものだ。しかし、格闘技興行は、大都市の単発の大会、興行にほぼ限られている。これは、真剣勝負の格闘技であれば、選手の身体、コンディショニングも考えると数ヶ月に一回以上の試合をすることができないからである。プロレスは勝敗を決めている演舞であるからこそ、大相撲スタイルの興行が可能になる。
実際、すべて真剣勝負になったとしたら、現在の大相撲は取り組み過多なのではないだろうか。地方巡業では真剣勝負ではないにせよ、あれだけ大型化した力士が、本場所で15日連続で真剣なぶつかり合いをしたら、怪我しない方がおかしい。もし、大相撲をスポーツ化して真剣勝負のみにするのであれば、興行スタイルを抜本的に見直して、15日興行を短くするか、幕下以下のように15日間興行であれば取り組みは1日おきぐらいに組むようにしなければ身体がもたないだろう。実際、今の力士たちは身体があっというまに壊れている。コンディショニングが難しいから成績が安定せず、スターが育たない。朝青龍は例外中の例外である。
以前は、地方の身体が大きくて運動が得意な少年は、かんたんに大相撲に集まった。しかし、今はもうそんなこともないだろう。興行会社としては、限られた人材を大切にスターに育てなければならない。今まで通りのやり方では、とても魅力的なアングルを作ることも、それとも、スターによるスリリングなスポーツであることも難しいように思える。
どうもまとまりがない文章になってしまった。また、もう少し考えてまとまったところで書いてみようと思う。