オブセッション

いつかは読むだろうと思って本棚に並べておいたジェイムス・エルロイ「ブラック・ダリア」(文春文庫 isbn:4167254042)を読んだ。衝撃的だった。
どう衝撃的だったのか。それを書きたいと思うのだけれども、なかなか文章にまとめられない。
エルロイの小説は、残虐な描写で有名である。この小説でも、きわめて残虐な犯罪が起こる。しかし、その犯罪の残虐さそのものが衝撃的だったというわけではない。
その犯罪は、犯罪に係わっていた人々それぞれを捉えているの深いオブセッションによって引き起こされる。そして、犯罪に巻き込まれた人々にも深い深いオブセッションを与えてしまう。「ブラック・ダリア」では、そのオブセッションの描き方が生々しい(いつもだったら、具体的な引用でその生々しさを説明するところだが、断片的な場面で説明することが難しい)。登場人物は、自分のオブセッションによってのたうち回る。それだけではなく、読者の自分も、自分がとらわれているオブセッションを思い起こされて、心が苦しくなる。オブセッションを刺激されるという意味で、危険な小説でもある。
ブラック・ダリア」と比較するのが適当なのかどうかわからないが、レイモンド・チャンドラー「長いお別れ」(ハヤカワ文庫 isbn:4150704511)は、この小説に比べると「薄い」ように感じられる。フィリップ・マーロウも、なにかオブセッションにとりつかれているのだけれども、マーロウ流の「美学」「スタイル」というもので、そのオブセッションをかわしているように見える。
ブラック・ダリア」の登場人物は、オブセッションにとりつかれたままに行動したり、そのオブセッションを乗り越えようとしたり、人によって行動はさまざまだが、オブセッションから身をかわそうとはしていない。そこが、「濃さ」を感じるのかも知れない。
今、エルロイの「ビッグ・ノーウェア」(文春文庫 isbn:416721850X)を読んでいる。また、エルロイの小説のことは書いてみたい。しかし、彼の小説のことを突き詰めて考えると、自分のオブセッションのことを考えなければらない。自分のオブセッションを考えることはつらい作業であるし、また、その結果をこのウェブログに書くことができるのだろうか。