「国家の品格」について完結編

稲本の日記(id:yinamoto:20060131)に、私のことについてこんなことが書いてあった。

対象から距離を置いて、冷静でいるように見えることが多いのだけれども、突然、異様に攻撃的になったり、ハイになったりすることがある(そんなときは、ハタで見ていて、驚く)。

確かに、どこかツボにはまると「異様に攻撃的」になることがある。藤原正彦国家の品格」(新潮新書 ISBN:4106101416)は、このツボにはまってしまった。わざわざけなすほどの本ではないから黙殺すればいいと思いながらも、頭の中が罵詈雑言でいっぱいになる。
昨日の日記(id:yagian:20060201:1138799601)で引用した「九鬼周造随筆集」(岩波文庫 ISBN:400331462X)に、こんな文章があった。

これは馬鹿げた非難だと一口でいってしまえばそれまでのことであるが、また考えようによってはいい機会でもあるから、果たしてこの非難が当たっているかどうかを、私は出来るだけ客観的に自分について調べてみたいと思う。

国家の品格」も、トンデモ本だと一口でいってしまえばそれまでのことであるが、頭を冷やして読み返してみた。そこで、新渡戸稲造「武士道」(岩波文庫 ISBN:4003311817)についてこんなことが書かれているのを発見した。

武士道に明確な定義はありません。新渡戸稲造は『武士道』を書いていますが、それは外国人に日本人の根底にある形を解説するための、新渡戸の解釈した武士道です。「武士道というのは死ぬことと見つけたり」で有名な『葉隠』にしても、山本常朝という人が口述した佐賀鍋島藩の武士道に過ぎません。
それでもやはり、私は新渡戸の『武士道』が好きです。私自身が推奨している「武士道精神」も、多くは新渡戸の解釈に拠っています。
新渡戸の武士道解釈に、かなりキリスト教的な考え方が入っていることは確かです。それが、元々の鎌倉武士の戦いの掟としての武士道とはかけ離れている、との説も承知しております。しかし、大事なのは武士道の定義を明確にすることではなく、「武士道精神」を取り戻すことです。
少なくとも、新渡戸の武士道は、私が幼い頃から吹き込まれていた行動基準と同一です。多くの人々も同じ思いを持つと思います。その意味で、近代武士道は新渡戸の書にもっともよく表現されていると思うのです。

細かいつっこみどころは多い(例えば、「近代武士道」って何?とか)けれど、それを抜きにしてじっくり読むと、藤原正彦の考え方が理解できたような気がした。
新渡戸の「武士道」は、藤原正彦がなかば説明しているように、現実の武士の倫理、行動規範としての武士道とは違っている。武士の言葉を借りながらも、実際には、キリスト教の信仰が基礎となっている新渡戸自身の倫理を表明したものと考えた方がよい。
藤原正彦新渡戸稲造による「武士道」が好きなのは、藤原正彦が伝統的な武士の倫理に共感しているからではなく、それが「幼い頃から吹き込まれていた行動基準と同一」だったからだ。つまり、藤原正彦が受けた教育は、武士の倫理としての「武士道」に基づくものではなく、新渡戸稲造内村鑑三の流れをくむキリスト教に基づく自由主義の香りに満ちたものだったのだろう。藤原正彦が取り戻すべきと考えているのは、「武士道精神」ではなく、彼自身が受けてきた教育ではないか。
もし、藤原正彦が、「武士道」などという言葉を持ち出さずに、幼少の頃受けた教育について回想し、そんな教育が自分のためにどれだけ役だったのか、そして、現在そのような教育が求められているのではないか、という趣旨で文章を書けば、同意しないまでも共感できたと思う。新渡戸の「武士道」には興味がないが、藤原正彦自身がどのような教育を受けてきたか、ということには興味を感じる。
藤原正彦は、プロテスタンティズムと、それを起源とする資本主義経済、そして、自由と平等の精神を攻撃する。しかし、彼が拠って経つ「武士道」を子細に見ると、日本の伝統に基づくものではなく、キリスト教自由主義教育が基礎にあった。それを彼自身は認識しているのだろうか。
藤原正彦お茶の水大学の読書ゼミで、以下のような本を課題図書として取り上げているそうだ。日本の伝統文化、情緒を身につけるために役立ちそうな本は少ないと思う。それより、札幌農学校の流れをくむ自由主義教育の教室で読まれるのにふさわしい本が並んでいるように思える。

国家の品格」のなかにでてくる日本情緒の例は、きわめて内容が貧しい。昨日の日記で引用した、九鬼周造と小唄のように、伝統への深い関わりを示す例はない。日本の伝統や情緒を強調する割には、藤原正彦自身、そのようなものとは縁遠い人なのかも知れない。
新渡戸稲造岡倉天心鈴木大拙は、日本の文化を西洋に紹介することで著名な人物たちである。藤原正彦が、そんな人たちの本を好むのは、彼自身はすっかり西洋化されており、西洋に向けて書かれた日本の文化の本が理解しやすいということではないだろうか。
谷崎潤一郎は「いわゆる痴呆の芸術について」(「谷崎潤一郎随筆集」(岩波文庫 ISBN:4003105575)所収)で、義太夫についてこのように書いている。

……私のように明治中期の東京に生まれ、少年時代と青年時代の殆ど全部を日本橋や京橋界隈の下町で暮らした者にとっては、あれくらい郷愁を催さしめる音楽(義太夫の三味線のこと:引用者駐)はなく、道八の如き名手のではなくともふとした時に旅芸人が門を流して過ぎるのを聴いても、つい恍惚としてしまうことがあるのは、何か理性を超越した、反抗しがたい郷土的感情の作用というのであろうか。だが、そういう恍惚感の後味は決して余り快いものではなく、……安価な感激に惹き入れられたことを腹立たしく感ずることも事実である。それというのが、近代の教養を身につけた一人前の男子の理性に照らしてみれば、正しくは痴呆の芸術に違いないからで、あの極まり悪いような、忌々しいような気持ち、―感心はするものの感心する自分自身を嘲るような、批判するような気持ちは、たとい山城少掾のような名人の芸を聴く場合においても、なお全くは禁じがたいのみならず、どうかすれば関心の度合が強いだけ、一層その半面の気持ちが強いこともある。……

谷崎潤一郎は、義太夫にどうしようもなく心を動かされてしまうが、理性的に考えるとそれを認めがたいところがあるということを書いている。藤原正彦は、きわめて安易、脳天気に日本の伝統文化を称揚し、谷崎潤一郎のような矛盾は感じていないようだ。それは、彼が日本情緒を身につけていないためではないか。そして、「日本の品格」を読んで感動する読者も、結局、日本の伝統文化や情緒に縁遠いということではないか。