科学ではない

しばらく前、「中村正三郎のホットコーナー」(http://iiyu.asablo.jp/blog/2006/02/25/267596)や「Bewaad Institute @Kasumigaseki」
(http://bewaad.com/20060302.html)というウェブサイトで、経済学は科学であるのか、というテーマについて、議論されていた。
この議論を読んでいて興味深かったのは、肯定派、否定派ともに、経済学は本来科学であるべき、ということを前提としていたことだった。否定派は経済学は科学とはいえないから劣っていると主張し、肯定派は経済学は十分科学といえる条件を満たしておりそれゆえ価値があると主張していた。
私は、大学時代、文化人類学科に席をおいていたけれど、文化人類学社会人類学は、決して科学とは思えなかったけれど、人類学の科学とはいえないような部分こそが気に入っていた。そいういえば、エドマンド・リーチが、社会人類学は科学ではないということを積極的に肯定している文章を読んだ記憶があったなと思い出し、彼の本をめくっていたら、エドマンド・リーチ「社会人類学案内」(岩波同時代ライブラリー ISBN:4002600653)のなかに、こんな一節を見つけた。少々長いけれど、引用する。

……歴史過程に「法則」などはない。社会学的確率に「法則」などはありはしない。人類文化の根本的特性は、その無限の多様性にある。それは秩序の無い多様性ではないが、あらかじめ決められた多様性でもない。民族誌学者たちの観察記録を理性を用いることによって規範的な自然科学に還元できると想像している人類学者たちは、時間を浪費しているにすぎない。
……社会人類学は、自然科学という意味での「科学」ではないし、またそうあろうとすべきではない。何かであるとすれば、それは芸術の一形式である。
 真の科学においては、およそ関心を持たれる主張は、反論に対して、開かれたものだけである。社会人類学者と文化人類学者によって提唱されている命題のほとんどが、この種の反論可能なものではまったくない。反論可能であるときは、即座に反論されている。専門家としての人類学者は百年もの間存在してきたにもかかわらず、彼らはたとえば、すべての人類は言語を持つといった、自明の理として扱われるものを除いては、人類文化や人間社会に関しての普遍的に妥当な真理を、一つとして発見しなかった。
 しかし、もし人類学が見出してきたものが歴史学という真理の地位も、科学という真理の地位ももたないとすれば、いったいそれらは、いささかんりとも正当性を持つのだろうか。正当性ということばは誤っているように、私には思われる。社会人類学者は、自分を客観的真理の探究者と考えるべきではない。彼らの目的は、他の民族の行動についての、あるいはそれを言うならば、自分たちの民族の行動そのものについての洞察を得ることにある。「洞察」とは、ひじょうにあいまいな概念に思われるかもしれないが、それは、別の脈絡では我々がおおいに賞賛しているものである。それは、深い理解という優れた性質であり、批評家としての我々が、偉大な芸術家、劇作家、小説家、作曲家とみなす人たちが持っていると考えている性質である。それは、一つの言語の陰影(ニュアンス)を完全に理解することと、単に個々の単語の辞書的解釈を知っていることとの違いである。

これは、なかなか厳しい考え方だと思う。リーチの考える人類学を実現するためのハードルはきわめて高い。
人文系の学問の中には、本来は「自然科学」的手法を適用すべきでない領域に、あたかも「自然科学」的な手法を適用しているかのような研究を目にすることが多い。すぐれた「洞察」によって、人を納得させることは、非常に難しい。それに比べれば、「自然科学」的手法によって「実証」する方が、一見かんたんである。しかし、リーチに言わせれば、人類の文化や社会について、「自然科学」的手法を適用して、普遍的な真理を見出そうとする研究のすべてを「時間を浪費しているにすぎない」と、切って捨てている。そのような研究はエセ科学だというのだ。
積極的に「科学」であることを放棄し、「洞察」を目指すことによって得られることもある。自然科学の世界でも、厳密に反証可能な命題だけを扱っているわけではないようだけれども、少なくとも、反証可能な命題を積極的に扱うことを目指しているわけではないだろう。社会や文化を対象とするには、反証可能な命題だけを扱うのでは、やせ細った学問になってしまう。人類学は、「科学」であることを放棄することで、そのような命題を扱うことができるようになった。
「科学」であることを放棄して、厳密さに欠く「洞察」に基礎をおくことで、一歩間違えればトンデモになりかねない危険がある。「一つの言語の陰影(ニュアンス)を完全に理解する」と言えるのは、並大抵のことではない。社会人類学文化人類学では、他の多くの学問領域とは異なる水準での徹底的な調査、研究を行うけれど、それでも、リーチのいう「洞察」に誰でも至ることができるわけではない。
自然科学の実験とちがって、「偉大な芸術家、劇作家、小説家、作曲家とみなす人たち」が行うことは、再現可能性がない。同じように、レヴィ・ストロースのような分析は彼にしかできない。芸術を学べば芸術家になれると限らないように、社会人類学文化人類学を学んだとしても人類学者になれるとは限らない。ピースミール・エンジニアリングとしての科学には、偉大ではない科学者にもできる仕事がある。しかし、偉大ではない人類学者には、存在意義がないことになる。
経済学は、科学を指向しており、じっさいに科学的な手法が適用されている。一方で、経済学は、科学的な手法が意味をもつ命題と、持たない命題の境界に近い問題を扱っていると思う。経済学が純粋な科学を指向ならば、反証可能な命題のみを扱う方が安全である。しかし、それだけでは、経済学もやせ細ってしまうのではないか。科学としての立場からは危険であっても、反証可能性が乏しい命題も取り扱う必要もあるのではないか。
だから、経済学が科学であるかを論じるとき、単に、経済学が科学であるということを示すだけではなく、科学的手法を適用することが妥当な限界の領域についても論じることで、より奥行きのある議論になるように思うのである。
まったくの第三者から「中村正三郎のホットコーナー」「Bewaad Institute @Kasumigaseki」での議論を読んでいると、どちらも偏狭で視野が狭いと感じたので、別の視点も示して、議論の幅を広げることができればと思い、このような文章を書いてみた。