懐疑主義と主観主義

しばらく前、近代化と国学の関係が気になると書いた(id:yagian:20060315:1142423286)。その参考になると思い、加藤周一「日本文学史序説」(ちくま学芸文庫 isbn:4480084878)を読み返している。国学のことを書いた部分ではなく違ったところに、印象に残る文章があった。

 近代の日本文学史もまた、その世界観の背景に応じて三つの流れとして叙述することができるだろう。たとえば、内村鑑三正宗白鳥。その間に森鴎外夏目漱石の世界があった。またたとえば、宮本百合子川端康成。その間に小林秀雄石川淳が位置づけられる。白鳥や康成に西洋文学の影響がなかったのではないが、その著作にあらわれた世界観は、全く土着の伝統に従う。その意味で鑑三におけるキリスト教、百合子におけるマルクス主義とは対照的であった。鴎外や漱石の場合、おそらく小林秀雄石川淳の場合にも、その世界観は土着の型ではない。そこには、共通の、宗教的な信仰を媒介としないところの、一種の個人主義があり、その個人主義には、歴史的な社会および文化の全体との関係において、それ自身を定義しようとする傾向がある。その傾向は少なくとも潜在的な包括性を意味するにちがいない。しかしその世界の構造は、鑑三の神や百合子の歴史に相当する超越的な絶対者を含まない。此岸的な、合理的な、超越的契機を入れないその世界は、一方では鴎外の懐疑主義または不可知論へ、他方では小林秀雄の主観主義または一種の美学へ傾くのである。

私自身の立場は、加藤周一がいうところの「宗教的な信仰を媒介しないところの、一種の個人主義」なのだろう。
どちらかといえば、鴎外的な懐疑主義、不可知論に共感しており、小林秀雄の主観主義、美学には、うさんくささを感じていた。しかし、最近、自分自身のことを振り返ってみると、懐疑主義や不可知論で日常生活を生きているわけではなく、しばしば主観主義、美学に基づくような判断をしていることに気がついた。
主観主義、美学のことを考え、語ろうとするのは、じつに難しい。主観、美学といったものは、一歩間違えると、底が浅い独りよがりになってしまう。トンデモの世界が、すぐ横に隣接している。しかし、深みのある主観、美学、直観というものを持っている人もいる。
柳宗悦大乗仏教を根拠にした民芸論は、あまりなっとくできない。どうしても、懐疑主義的な目で見てしまう。しかし、彼が選んだ民芸品を並べた日本民芸館を見ると、心うたれる。言葉では説明できないけれど、彼は、深い主観、美学、直観というものを持っていることを、有無を言わさず、懐疑主義を吹き飛ばして納得させるだけの力がある。
懐疑主義や不可知論は、ある意味かんたんである。ごく普通に教育を受け、ちょっとした教養を身につければ、懐疑主義をふりまわし、どんなものでもあらを探して批判することができる。一方、深い直観、美学を身につけることは簡単ではない。あいまいではあるけれど、深い、浅いの差は厳然と存在し、深さを身につけることはなかなか厳しいのだろうと思う。
今、懐疑主義より主観主義のほうが、楽しそうにも見える。主観主義の先達たちをたどってみようと思っている。