近代化

学生時代に読んだ柄谷行人日本近代文学の起源」(講談社学芸文庫 isbn:4061960180)を引っぱりだして読み返している。
ところどころ、ページの端が折ってあったり、線が引いてあったりしている。今、読んでいると、その当時、線を引いている理由はだいたいわかるけれど、それ以外の当時は何の気なしに読んでいたところが気になったりする。そんなところのひとつを引用してみたい。

 だが、ここで注意すべきことは、「風景画」からみて類似的なものだとしても、西欧中世の絵画と「山水画」は異質だということであり、前者には「風景画」をもたらす要素があるのに後者にはないということだ。この点では、いわば山水画的な「場」を「漢意(からごころ)」に侵されたものとして批判した本居宣長を例にとってもよい。宣長は、日本人がものをみるとき、すでに漢文学による概念のなかでしかみていないこと、そして『源氏物語』には在るがままにものをみる視点があることを主張した。もちろん宣長がすでに近代の西欧をある程度意識していたということを考慮にいれなければならないが、このような批判はある意味で西欧近代のそれに類似している。しかし、これはどうしても「風景の発見」にならないのだ。坪内逍遙の『小説神髄』(明治十八年)は、西欧の「写実主義」と宣長の源氏論を結びあわせている。逍遥の文体や宣長の文体からは、どうしても「風景」は出てこない。すると「風景画」は、中世絵画を転倒するものだとしても、その源泉は後者にあるのだし、西欧に固有の何かによって生まれてきたといわねばならない。それについてはべつに論じるだろう。

柄谷行人は、近代化について「風景の発見」から話を始めている。ここの「風景画」とは近代の絵画を意味している。
この文章のなかに、最近、気になって繰り返しこのウェブログで書いている問題の論点は、だいたい入っている。
柄谷行人がいうように本居宣長と西欧近代は類似しているようにみえる。宣長は、西欧近代の影響をうけていたのか、もし、影響をうけていたとすれば蘭学を経由しているのか、中国を経由しているのか。また、柄谷行人は、宣長は西欧近代に類似しているけれども別物だとも書いている。
宣長は、蘭学の新知識には触れていたようだ。彼の思想が西欧近代に類似しているのは、その実証的な学風にある。しかし、それは蘭学の影響によるものではなく、荻生徂來の古文辞学の影響が大きいようだ。荻生徂來は、明代の中国の文学者、李攀竜、王世貞の影響を受け、朱子学による解釈を廃し、古言を直接理解することを目指したという。そうだとすれば、李攀竜、王世貞に近代化の萌芽があったということか、それとも、彼らから宣長に至る流れは西欧近代と類似していたとしても、それは偶然の結果に過ぎないのか。
学生の頃から「日本近代文学の起源」を読んでいてところをみると、私は、そのころから日本の近代化に興味があったらしい。その頃に比べれば、近代化後の明治時代については、ある程度は理解できたように思う。そして、今は、近代化を準備した江戸時代に興味が移りつつある。しかし、ちょっと眺めただけでも、広大な世界が広がっていて、当分は楽しめそうだ。