国民意識

私がこんなことを言うのも畏れおおいけれど、丸山真男を読んでいると、頭脳明晰な人だと感心する。「日本政治思想史研究」(東京大学出版会 ISBN:4130300059)は、昭和十九年書かれたものだけれども、国民、国民主義について書かれていた部分があったが、じつにわかりやすく納得できた。ながくなるけれど、引用しようと思う。

 国民とは国民たらうとするものである、といはれる。単に一つの国家的共同体に所属し、共通の政治的制度を上に戴いてゐるといふ客観的事実は未だ以て近代的意味に於ける「国民」を成立せしめるには足らない。そこにあるのはたかだか人民乃至は国家所属員であつて「国民」(nation)ではない。それが「国民」となるためには、さうした共属性が彼等自らによつて積極性に意欲され、或は少くも望ましきものとして意欲されてゐなければならぬ。……言語・宗教・風俗・習慣其他文化的伝統の共通性を地盤として自己の文化的一体性については明確な自覚を保有しながら、政治的な国民意識を欠いてゐる様な場合もある。……国民意識は苟もそれが自覚的なる限り、早晩政治的一体意識まで凝集するに至る。近代国民国家を担ふものはまさにこの意味に於ける国民意識にほかならない。さうしてかかる国民意識を背景として成長する国民的統一と国家的独立の主張とをひろく国民主義(Nationalism; Principle of nationality)と呼ぶならば、国民主義こそは近代国家が近代国家として存立して行くため不可欠の精神的推進力である。……
……人間が一定の土地に代々定着してゐたことによつて自然にその土地乃至風俗に対して懐くに至つた愛着の念といつた様なものは遠い過去からあつたに違ひない。しかしかうした本能的な郷土愛は国民意識を培う源泉ではあつても、それは直ちに政治的国民を造りあげる力とはならぬ。……かうした郷土愛は国民意識を培ふどころか却つてその桎梏として作用する。かゝる際には近代的国民主義は伝統的郷土愛の揚棄を通じてのみ自らを前進せしめうるのである。……国民主義がこの様な国民の伝習的な生存形態との矛盾衝突をも賭して自らを形成するといふことはとりもなほさず、政治的国民意識が自然的自生的存在ではなく、その発生が一定の歴史的条件にかかつてゐることを示してゐる。国民は一定の歴史的発展段階に於てなんらか外的刺戟を契機として、従前の環境依存よりの、多かれ少なかれ自覚的な転機によつて自己を政治的国民にまで高める。通常この転換を決意せしめる外的刺戟となるのが外国勢力でありいはゆる外患なのである。

この文章を読んでいると、昨今の教育基本法愛国心教育をめぐる議論は、賛成派、反対派ともに、水準が低いように思う。
丸山真男が書くように、国民意識は、人為的な所産であり、郷土愛から自然発生するというものではない。したがって、日本という国民国家を維持するには、国民意識を再生産しなければならない。日本という国民国家を否定するのでなければ、国民意識を再生産するための教育を否定することはできない。しかし、国民意識を再生産することを目的とするならば、愛国心教育は的はずれであると思う。
例えば、イラクのことを考えてみよう。現在のイラクには、国民意識が形成されているとはいえない。イラク人としての国民意識よりも、シーア派、スンニ派、クルド人という「郷土愛」が国民意識形成の桎梏となっている。イラクの議会、政府は、「イラク国民」を代表していると、イラクの地域に住む人々からは信頼されていない。スンニ派のような少数派となった人々は、多数派となったシーア派の人々構成する政府から「イラク国民」としての最低限の権利を保障される、という信頼感を持っていない。
日本では、選挙に敗れた民主党であっても、政府、議会を否定して、武力闘争に移行することはない。あくまでも、日本という国家の制度の枠内で政治活動をしている。それは、国民国家への最低限の信頼があるということだろう。
明治時代、「日本」という国民意識をいちから形成するためには、愛国心を高揚させることが必要だったのだろう。それは、西洋という外患によって形成された。現在のイラクは、この段階にあり、愛国心の高揚をテコとした国民意識の形成が必要である。
しかし、すでに国民意識が形成され、国民国家が成立している日本における国民意識の再生産は、単純な郷土愛、愛国心の高揚ではなく、議会、政府といった国家制度への信頼の醸成である。それには、結局、民主主義への理解と信頼、現在の日本が民主主義によって運営されていることへの理解を養うことが、国民意識の再生産に最も重要なのではないかと思える。