読みにくい本

最近、「伝統」の起源についてあれこれ考えている。「カルチュラル・スタディーズ」と呼ばれる分野で、近代における「伝統」の成立について研究されていると聞き、ながらく積読状態で放置していた上野敏哉、毛利嘉孝「実践カルチュラル・スタディーズ」(ちくま新書 ISBN:4480059458)を読んでみた。
この本が積読になっていたのは、私が、カルチュラル・スタディーズに対して、十分咀嚼されていない生煮えな用語、概念を振り回している人たちが集まっている分野という偏見を持っており、食わず嫌いだったからだ。読んでみた結果、残念ながらその偏見は払拭できなかった。
高島俊男「お言葉ですが」(文春文庫 ISBN:4167598027)に、次のような話が書かれている。

 「ひと月に五十冊くらい本を読む」と言うと、たいがいの人がエッとびっくりする。くわしく話すと「なあんだ」とひょうしぬけする。
 五十冊のうち四十八冊から四十九冊は途中までである。その「途中」がまた早い。最初の数ページでやめることはしょっちゅう。わずか一ページ、さらには一行か二行でやめてしまうこともある。
 最近のダウン記録。いづれも冒頭である。<明治四十二年の九月下旬、フィリピン沖の東中国海を一路横浜へいそぐ、日本郵船の客船北野丸の前甲板は、華やいだ洋行帰りの日本人客でにぎわっていた。>
 この本を書いた人は、「支那」はなんでも全部「中国」に言いかえねばならぬものと思いこみ、参照した資料の「東支那海」を機械的に「東中国海」になおしたものと見える。しんぼうして読んでいたらそのうちに「インド中国半島」なんてのも出てくるかもしれぬが、そこまでつきあわねばならぬ義理はないからこれだけ読んでおしまい。

「実践カルチュラル・スタディーズ」という本も、奇異な表現、理解できないところが多い。高島俊男にかかったら、一行でおさらばだろう。私も、多少はがまんして読んだけれども、全部読破することはできなかった。読みにくいところと、比較的すっと読めるところが混ざっているから、上野氏か毛利氏か、いずれかの人の文章がよくないということかもしれない。読みにくいところの一例を引用してみる。

 われわれが想定しているカルチュラル・スタディーズには日常生活(批判)を重視する身ぶりがある。しかし、これは日常性をそのままある思想的、あるいは政治的な立場として立ち上げることではない。日常の思想化はカルチュラル・スタディーズの一つの側面ではあっても、その全てではない。
 こういう発想に立った場合、「民族誌的方法」(エスノグラフィー)の導入は有効である。社会理論が民族誌的方法を導入することで一番大事なことは、「様々に異質な立場の声の相互作用」を提示できるということ点だろう。フィールド(民族誌にとっての対象領域と現場)でのインフォーマント(情報提供者)は研究者(分析者)にとっての素材ではないし、思いどおりに発言してくれるわけではない。民族誌(エスノグラフィー)におけるエスノとはギリシア語のエトノス(慣習)に由来するものだが、この方法の採用は、「詩学と政治の相互作用」を理論にもちこむことになる。
 ここで「詩学」というのは、広く言葉を使った表現行為の意味であって、単にレトリック的な戦略を指しているのではない。研究者とはまったく異なった言語と表現、立場でもってインフォーマントは発話する。研究者は自らのフィールドのなかの位置を問うことによって、ミクロからマクロまでの「政治学」に直面するからである。そして研究者はいつの間にかインフォーマントとのコミュニケーションによって「詩学」のなかに引きずり込まれ、インフォーマントやフィールドに重なる様々な声は独自の「政治学」を語りだす。こうしてエスノグラフィーにおいて、詩学と政治学は不可分になる。

彼らが専門分野のなかでどのような言葉を使っているのかは知らないが、一般読者を想定しているはずの新書では、一般読者がわかるように書かなければ意味があるまい。もっとも、新書でこれだけわかりにくい文章を書いていて、専門の論文では明晰な文章が書けるとはとても思えないが。
まず、冒頭の一文から、引っかかってしまう。「日常生活(批判)を重視する」と書かれているが、この「(批判)」の意味がよくわからなかった。この本の他の部分を読んでいると、どうやら「日常生活および日常生活批判を重視する」という意味らしい、ということがわかってくる。であれば、そのように書けばよいのに、なぜ、わざわざ「(批判)」などと書くのだろうか。
また、この文の最後に「身ぶり」という言葉がある。これもわかりににくい。前後の文脈から察すれば、態度という意味のようだ。わざわざ「身ぶり」という言葉を使う意味がわからない。
そしてその次の文、「これは日常性をそのままある思想的、あるいは政治的な立場として立ち上げることではない。」をなんどか読み返してみたが、どうにも意味がわからない。「立場として立ち上げる」とは、なんのことなのだろうか。「日常生活を、思想的、政治立場から解釈する」ということなのだろうか。「日常生活が、実は、思想的、政治的活動であることを明らかにする」ということなのだろうか。それとも、「日常生活を、特定の思想的、政治的な立場の運動のために役立てる」ということなのだろうか。どれも著者の意図とは違っているような気がする。もっとも、著者自身も、何を書こうとしているのか、明確に理解していないのかも知れない。
後段の「詩学と政治学」という言葉を使った部分は、噴飯ものである。このような言葉を使わず、平易に書けばよいと思う。
「「詩学」というのは、広く言葉を使った表現行為の意味であって、単にレトリック的な戦略を指しているのではない。」と書いてある。まず、「レトリック的な戦略」という言葉があいまいだ。おそらく「戦略に基づきレトリックを使った行為」というぐらいの意味なのだろう。「広く言葉を使った表現行為」というのは、要するに、情報提供者と研究者が「話したこと」という意味だろう。ここで「詩学」などという言葉を持ち出してくる必要はまったくない。
「研究者はいつの間にかインフォーマントとのコミュニケーションによって「詩学」のなかに引きずり込まれ、インフォーマントやフィールドに重なる様々な声は独自の「政治学」を語りだす。」という部分も、何を言いたいのか、実にわかりにくい。「研究者は、情報提供者と話し合っていると、フィールドにはさまざまな政治的な立場があることがわかる。また、研究者自身も中立であることができず、なんらかの政治的な立場に立っていることに気がつく。」というぐらいの意味だろうか。
カルチュラル・スタディーズは、学問の専門性のなかに閉じこもるのではなく、広く社会とかかわりを持つことを目指しているはずだ。それなのに、専門外の人にもわかるような文章を書けなくてどうするのだろうか。