ブログの鬼

宇野浩二の「思い川」(「思い川|枯木のある風景|蔵の中」講談社文芸文庫(ISBN:4061963848)所収)を読んでいたら、こんな文章があった。

……小説をかくという仕事は、むつかしくいうと、生活することだ。生活するということは、生きている間じゅう、休みがない。毎朝、おれが、目をさますと、たちまち、もやもやした何ともいえぬ、不機嫌な気分におそわれて、一刻の猶予もなく、何かにせきたてられるような気がするのは、この休みのない仕事(いとなみ)の思いをおれにさせるのにちがにない。おれは、それを『小説の鬼』と名づけている。おればかりではない。小説をかくことを仕事にしている人びとは、たいていこの『小説の鬼』に取りつかれている、といっても差し支えないだろう。この『小説の鬼』のために、おれたちの頭には、夜も、昼も、日曜日も、祭日も、ない。
 こういう頭をもって、毎日を送っていたのでは、たとい、散歩をしても、活動写真を見にいっても、何の休息にもならない。……よし、これから、ひとつ、おれも、人なみに、日曜日を、……いや、日曜日とはかぎらない、かえって、木曜日とか、金曜日とか、いう、町の騒がしくない日のほうがよい、おれの安息日を月に三四回こしらえておこうか、と、おれは近頃おもいついたことがある。が、思いついただけで、例の『小説の鬼』におわれて、なかなか実行ができない。そうして、日曜日も、月曜日も、火曜日も、あいかわらず、徒の日として、過ぎてゆくのである。

かつては、自分も「ブログの鬼」に取りつかれていたと思う。今は、どうしたことか「ブログの鬼」が抜けた。せきたてられることなく、書く気になったときだけ、思い出したようにブログを書こうと思う。