資本主義の精神

たまに、マックス・ヴェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(岩波文庫 ISBN:4003420934)を読み返す。
特に、「第一章 問題 二 資本主義の「精神」」のあたりが面白い。自分の行動を振り返ってみると、実に思い当たる節が多く、自分が「資本主義の精神」が刷り込まれていることがわかる。1920年にドイツで書かれた本の内容が、現代の日本に暮らす自分に当てはまるのである。

 実を言えば、今日われわれによく知られてはいるが、本当はその意味が決して自明でない、職業意識(Berufspflicht)という独自な思想がある。その活動の内容がなんであるかにかかわらず、また捉われない見方からすれば、労働力や物的財産(「資本」としての)を用いた単なる利潤の追求の営みに過ぎないにもかかわらず、各人は自分の「職業」活動の内容を義務と意識すべきだと考え、また事実意識している、そういう義務の観念がある。―こうした思想は、資本主義文化の「社会倫理」に特徴的なもので、ある意味では、それにとってたしかに構成的な意味をもっている。……もちろん、現在の資本主義が存続しうるための条件として、その個々の担い手たち、たとえば近代資本主義的経営の企業家や労働者たちがそうした倫理的原則を主体的に習得していなければならぬ、ということでもない。今日の資本主義的経済組織は既成の巨大な秩序界であって、個々人は生まれながらにしてその中に入り込むのだし、個々人(少なくともばらばらな個人としての)にとっては事実上、その中で生きねばならぬ変革しがたい鉄の檻として与えられているものなのだ。……
……少なくとも勤務時間の間は、どうすればできるだけ楽に、できるだけ働かないで、しかもふだんと同じ賃金がとれるか、などということを絶えず考えたりするのではなくて、あたかも労働が絶対的な自己目的―>>Beruf<<「天職」―であるかのように励むという心情が一般に必要となるからだ。しかし、こうした心情は、決して、人間が生まれつきもっているものではない。また、高賃金や低賃金という操作で直接作り出すことができるものでもなくて、むしろ、長年月の教育の結果としてはじめて生まれてくるものなのだ。今日では資本主義は堅固な基礎がすでにできあがっているから、どの工業国でも、またそれらの国々のどの工業地帯でも、労働者の調達は比較的容易だ。しかし、昔は、いつでもきわめて困難な問題だった。……

自分自身のことを怠惰で無責任だと思っており、実際にもその通りで、特に、家にいるときは、その傾向がはなはだしい。しかし、会社にいる時間は、ヴェーバーがいうような「職業意識」のかけらを持ちながら働いている。
もちろん、報酬をもらわなければ会社で労働することはないけれど、「できるだけ働かないで、しかもふだんと同じ賃金がとれるか、などということを絶えず考えたり」するわけではない。さしたる疑問も持たず、「各人は自分の「職業」活動の内容を義務と意識すべきだと考え、また事実意識している」し、同僚、部下、取引先も、同じような「職業意識」を持っていることを当然と考えている。
学校教育も、そのような職業意識を内面化する機能は持っているけれど、自分自身を振り返ってみると、会社こそが、職業意識の内面化を促す機能、というか、洗脳の機能を持っていると思う。
パブロフの犬のように報酬の多寡に単純に反応して働く社員ばかりでは、会社が持続して高い利潤を維持することはむずかしかろうと思う。社員にこのような「職業意識」を内面化させることが、会社のきわめて重要な機能である。実際に、私の勤めている会社でも、「職業意識」の内面化への圧力は高まっているし、うまく内面化できなかった社員、言いかえれば洗脳されずに正気を保っている社員は、会社にとどまれなくなったり、自発的に退社することになっている。
現代の自分自身の行動について、ヴェーバーほど適切に説明している人は少ない。こうした本こそが、「古典」と呼ぶにふさわしいのだろう。