気迫

あいかわらず伝統の問題が気になっている。
伝統への愛着と、しかし、伝統と呼ばれるようになった時にはすでに死んでいることへの悲しみ、そして、そんなアンビバレンツな気持ちを理解していない自称「伝統主義者」への怒りの三つが、私の伝統への思いの原動力になっているように思う。
久しく積読状態にしていた折口信夫を、わからないなりに読みつつある。「折口信夫全集 神道宗教篇」(中公文庫 ISBN:4122003644)を読んでいたら、折口信夫の気持ちが爆発しているような一節があった。

我々の学問の祖たちは、奈良の代の古歌の尊いことを、我々に説いてくれた。而も今日、其方々の歌集を見ると、二度びっくりである。ますらをぶりのたけびをあげられた賀茂翁すら、家持程度の澆李萬葉調である。趣味論一遍で文学を見られた本居翁などは、見ぐるしい両刀使ひである。其余の人々、皆頓才を以て、古語・死語を三十一文字に切りはめて居たばかりである。景樹が、実際凡庸であつたからこそよけれ、今日も一部の人に信じられて居る様な大歌人であつたなら、評論も、作物も、両つ乍ら大負けになる処であつた。
……
萬葉びとの生活を体得せないでは、萬葉を読んだ処で、何になる。萬葉びとの魂を吸ひこむことをしないでは、言語意義変遷史・文学思想推移の沿革をひき出すに止まるのである。単なる語学者・文学思想史の研究者としてなら、其以上の註文は無理である。けれども私は、今そんな人々に対して、物を言うて居るのではない。古代人の生活を全体として経験した下地に立つて、大昔の文化を研究しようと言ふ意味なる、あなた方國學院のわかい学者たちを、あひてにして居るのである。萬葉びとの強い生活力を、国民の上に今一度持ち来すには、本道のますらをぶりの歌の拍子から、波だつて来る古人の気迫を、我々の旨に甦らさねばならぬ。

折口信夫の文章はなかなか理解できない。釈迢空としての歌の真価もよくわからない。しかし、学問と実作を通じて、万葉人の魂に迫ろうとした意気はわかる。その意気のあまり、賀茂真淵本居宣長、香川景樹をしかっているのはご愛敬である。
伝統主義者として伝統をかたるなら、このぐらいの気迫で望んでほしい。