竪穴式住居の謎

大学の必修の単位で、考古学の実習というものがあり、二週間ほど合宿をして縄文時代の遺跡を発掘したことがある。
素人の学生のための実習の発掘だから、別に名のある遺跡というわけではなく、ありふれた竪穴住居跡だった。それでも、石器や土器が出てくるし、住居跡の中央にはかまどの跡もあった。
学生ごとに発掘する場所を分担して、作業を進める。私は、住居跡の脇にある、墓穴らしき跡の担当になった。その墓穴は、ちょうど、人がひざを抱えて座るとぴったりの大きさで、ひとりで掘り進んでいった。ある程度掘り進むと、自分が屈葬をされた人のような体勢になって、穴の周りの壁を慎重に削っていく。
住居跡の発掘を担当した人たちが、土器や石器を掘り出して楽しそうにしているのを横目で見ながら、墓穴跡からはなにも出てこなかった。先生から、もしかしたら埋葬された人骨のかけらがあるかもしれないと言われていたが、もう、すっかり溶けてしまっていたようだ。もしかしたら、墓穴ですらなかったのかもしれない。
最初のうちは、土器を見つけるとうれしかったが、縄文の住居跡には想像以上に大量の土器でてくるので、喜びが麻痺してくる。しかも、土器の形のまま埋まっているものはほとんどなく、割れてしまった土器のゴミ捨て場から大量の断片が出てくるから、全体の形を復元はできない。それでも、発掘している以上、測量をして出土した場所を確認し、土器を洗ってナンバリングをして、台帳につけなければならない。最後には、それが面倒なあまり、土器が出てくると埋め戻したくなってくる。
公民館のようなところを借りて、大広間で雑魚寝の合宿をしていた。基本的には、日中の肉体労働で、夜はあまりすることがなかったから、毎晩酒盛りをしていた。酔っ払った教授が、インターナショナルを歌おうと言い出し、レトロな雰囲気の酒盛りになったのが懐かしい。
それにしても、なぜ、家を作るとき、わざわざ竪穴を掘ってその上に屋根をかけたのだろうか。日本は雨が多いから、竪穴だと水が流れ込みやすいだろう。いったん水が入ってしまうと、窓もない薄暗い室内では、なかなか乾かないだろう。もちろん、その対策として、竪穴の周りに土手を作ったり、水抜きの溝を掘ったりしているのだろうけれど、そもそも竪穴にしなければそんなことも不要だと思える。
柱を立てて床を張った建物の方が、日本の気候には適しているように思うし、ある時代以降の日本家屋はそのようになっている。なぜ、竪穴式住居が選択されたのだろうか。