郷土文学

前にも書いた覚えがあるが−−(id:yinamoto:20070616参照)、私は東京出身であるけれど、郷土として認識する対象としては東京は広すぎて実感がない。日常的な行動圏は、東京という都市のごく一部に限られている。
私は、北区出身で、文京区の学校に長らく通学し、台東区に習い事に通っており、板橋区のプールの水泳教室に通っていた。そして、現在では豊島区に住んでいる。だいたい、このあたりが幼少のころからの行動圏で、あとは、勤務先のある千代田区が付け加わったぐらいだ。
おそらく、私が港区、品川区大田区に縁がないように、城南地区に生まれ育った人たちは、私の行動圏内に足を踏み入れることは稀だろう。また、武蔵野の私鉄や中央線沿線の町に行くことも少ないし、江東区江戸川区も縁遠い。
江藤淳のエッセイを読んでいたら、もともと大久保の住宅街(戦前の大久保はいい感じの郊外住宅地だったようだ。今のホテル街を想像してはいけない。)に住んでいた彼が、戦災で焼け出されて、北区の社宅に移り住んだことで、非常な喪失感を感じたことが書かれていた。それでは、北区出身の私は、もともと喪失していることになってしまう。まあ、それはよいとして、新宿に生まれ、鎌倉に住んでいた江藤淳にとって、北区などに足を踏み入れる機会はなかっただろうし、そこが、辺境の地と感じられてもいたしかたない。
前ふりはここまでで、これからが本題になる。久しぶりに、中井英夫「虚無への供物」(創元推理文庫 asin:4488070116)を読んだ。実に面白かった。年寄りくさい言い方だけれども、最近の若い人は「虚無への供物」を読むのだろうか。ある一つの到達点、究極の作品であることは間違いないから、だまされたと思って読んだ方がいいと思う。読む側にも読む解くだけの努力と知識が必要とされるけれど。しかし、今回読み返してみると、中井英夫もずいぶん読みやすくなるように、サービスしてくれていることに気がついた。以前よりは、私自身、読み手としての力がついたのかもしれない。
この小説は、奥が深いので、じつにさまざまな読み方、解釈の仕方、楽しみ方ができると思う。私にとっては、郷土小説として読んでいる。中井英夫は、私の実家の隣駅の出身で、中学から大学まで同じ学校に通っており、この小説の舞台も、豊島区から文京区、台東区あたりの城北地区が中心で、読んでいると、ああ、あそこだ、むかしは、そんなに薄暗かったのか、と思いながら楽しんでいる。
城北地区の郷土文学、という視点で書かれた本に、近藤富江「田端文士村」(中公文庫 asin:4122043026)がある。田端文士村の住民のなかでも、もともと城北に生まれ育った作家と、城北に移り住んできた作家では、肌合いがちがっている。城北生まれの作家たち、夏目漱石芥川龍之介広津和郎中井英夫といった人たちには、なにか、自分に通じるものを感じるのである。