文体と構成

物語の構造分析

物語の構造分析

有坂誠人の現代文速解 例の方法

有坂誠人の現代文速解 例の方法

ロジカル・シンキング―論理的な思考と構成のスキル (Best solution)

ロジカル・シンキング―論理的な思考と構成のスキル (Best solution)

昨日のエントリーでは、ウェブログの文体、構成が、和文の日記の伝統を受け継ぐものではないか、という仮説について書いたところ、suganokei(id:suganokei)からアメリカとフランスの文体についてのコメントを書いていただいた。文体や構成といったことについて、一つのエントリーを書くほどまとまっていないが、コメント欄に書くには長過ぎるアイデアがいくつかあるので、順不同に書いてみようと思う。
この文体という問題に目を開かせられたのは、バルト「物語の構造分析」の次の一節がきっかけだった。

 周知のように、言語学は、文をもって終わる。言語学が扱う権利を持つと考える最終単位は、これである。実際、文は一個の序列であり系列ではないから、それを構成する語の総和に還元できず、まさにこことによって独自の単位を構成するが、これに反して言表は、それを構成する文の継起的連続以外の何ものでもない。言語学の観点から見れば、ディスクールは、文のなかに見いだされないものは何一つ含んでいない。……
 とはいえ、(文の集合としての)ディスクールそのものも組織化されていて、この組織化のゆえに言語学者たちの言語よりも上位の、もう一つの言語によるメッセージとして立ち現れてくる、ということは明白である。ディスクールにはディスクールの単位、規則、《文法》があるのだ。文を超え、ただ文だけで構成されているとはいえ、ディスクールは当然、第二の言語学の対象とならなければならない。このディスクール言語学は、非常に長いあいだ、「修辞学」という輝かしい名前を持っていた。……ディスクールの新たな言語学はまだ発達していないが、しかし少なくとも、言語学者たち自身によって要請されている。

言語学の対象が文に終わるということ、また、文を単位とした「言語学」を考えうること、のいずれも思いもしなかった指摘で、非常に驚き、納得した覚えがある。
私が受験生だった頃、代ゼミに有坂誠人という現代国語の先生がいた。私自身は彼の授業をとったことがないので詳しくは知らないが、文章を全部読まずに、読むべき部分とその関連を図示化して読み解く「例の方法」というやり方で人気だったという記憶がある。これなどは、ある種のディスクールの文法をふまえた方法だったのではないだろうか。
以前、知り合いが中学生の作文を添削するアルバイトをしていて、中学生の作文を読ませてもらったことがある。いわゆる自由作文なのだが、構成がなくて読みにくいものが多かった記憶がある。そのなかで、台湾からの交換留学生が書いたものだと思うが、漢字だけの現代中国語の作文が混ざっていた。これが、実に構成がしっかりして、日本の中学生が書いた日本語の作文よりも読みやすいのである。対句を使い、全体は起承転結の構成になっている。中国語はディスクールの文法の拘束が強く、対句を使いや起承転結で構成されていなければ文章ではない、ということになっているのではないかと想像した。読みやすいのは間違いないが、逆に言えば、これから外れた構成の文章を書くことは難しいということかもしれない。
昨日のエントリーにも書いたが、中国語と同じように、アメリカでの作文教育でも、型にはめる教育をしている。パラグラフには必ず一つの主題を置く。パラグラフの冒頭にはその主題を示すトピック・センテンスを置く。トピック・センテンス以下は、トピック・センテンスを説明、支持する事実を提示する。パラグラフとパラグラフの論理展開を明確にする、といったように。中国風の対句や起承転結とは違うけれど、似たような構成の作文ができあがるようになる。「ロジカル・シンキング」を読み、これは作文教育と同じ考え方に基づいているとすぐに気がついた。MECEやピラミッドストラクチャーは、パラグラフを構成するための文法という訳だ。中国人は起承転結の文法に、アメリカ人はピラミッドストラクチャーの文法に従って作文をするということになっている。
PowerPoiontという道具は、このアメリカ風のパラグラフの文法を前提として作られているものだと思う。スライド1枚とパラグラフが対応している。各スライドのタイトルがトピック・センテンスに対応し、スライドに示す図がパラグラフの内容に対応している。スライドをピラミッド・ストラクチャーに従って構成すればプレゼンテーションが完成する。だから、PowerPointのプレゼンテーションからアメリカ風の作文に展開には、図の内容を文章にすれば簡単にできる。
私はあまり詳しくないけれど、プログラミングの世界にも、同じように文レベルの文法とそれを超えたレベルでの文法があるようだ。アメリカ風の作文の構成とプログラミングでの構造化は同じような考え方になっているのではないかと想像している。
構成が一定しているとわかりやすいのは間違いない。一定のわかりやすさを持った文章を大量生産するには適している。しかし、いかにもPowerPoint風のプレゼンテーションを見せられると食傷するのも事実だ。きれいにまとまっているが、発想までも型にはめられているような印象を持つ。もっとも、きちんとしたプレゼンテーションをできるだけでも十分難易度は高いことなのだが。
suganokeiさんが、昨日のエントリーのコメントでフランスの文章について書かれていたけれど、フランスの作文教育の考え方はどうなっているのか興味がわく。