美しい文章とは

雪 (岩波文庫)

雪 (岩波文庫)

ある知り合いから、しんしんと雪が降る夜、街灯の下から見上げると視界全体が真っ白になり「この世で自分だけ」という気持ちになる、そんな瞬間が好きだという話を聞いたことがある。それはきれいだろうと思った。
中谷宇吉郎「雪」を読んでいたら、同じ情景を描いた文章があった。

……夜になって風がなく気温が零下十五度位になった時に静かに降り出す雪は特に美しかった。真っ暗なヴェランダに出て懐中電燈を空に向けて見ると、底なしの暗い空の奥から、数知れぬ白い粉が後から後からと無限に続いて落ちて来る。それが大体きまった大きさの螺旋形を描きながら舞って来るのである。そして大部分のものはキラキラと電燈の光に輝いて、結晶面の完全な発達を知らせてくれる。標高は千百米位に過ぎないが、北海道の奥地遠く人煙を離れた十勝岳の中腹では、風のない夜は全くの沈黙と暗黒の世界である。その闇の中を頭上だけ一部分懐中電燈の光で区切って、その中を何時までも舞い落ちて来る雪を仰いでいると、いつの間にか自分の身体が静かに空へ浮く上がって行くような錯覚が起きて来る。外に基準となる物が何も見えないのであるからそんな錯覚の起きるのは不思議ではないが、しかしその感覚自身は実に珍しい今まで知らなかった経験であった。

漆黒の闇の中、懐中電燈の光で雪が輝く空間へ、身体が静かに浮き上がって行く。実に美しいイメージである。
この文章を読みながら、はたと、美しい文章とは何なのだろうかと疑問を感じた。この中谷宇吉郎の文章は美しい文章と言えるのであろうかと。
中谷宇吉郎が表現しようとした風景、イメージは美しい。そして、この文章によってその風景、イメージが想像できる。美しい文章というのは、そのような文章を指すのだろうか。
しかし、美しいのは風景、イメージであって、文章それ自体ではないようにも思う。そうだとすると、この文章は、美しい風景、イメージを的確に伝える、うまい文章、といえるが、美しい文章とは違うのかもしれない。
確かに、詩的な言葉には、言葉のリズムや音の組み合わせそれ自体が美しいということがある。しかし、この文章はその種の詩的な言葉で書かれているのではなく、散文的な散文である。
美しい散文とは、詩的な美しさを取り込んだ文章ということだろうか。そうだとすれば、いわゆる美文こそが美しい文章であり、現代的な散文は美しい文章ではない、ということになる。
こんなややこしいことを考えず、ただ、中谷宇吉郎の文章を味わえばいいのかもしれないけれど。