論語の魅力

夕食前に飲んだギネスの缶ビールがやけに水っぽく感じられた。ビールは生ものだからけっこう味にばらつきがあるように思うけれど、それにしても薄すぎる。どうしたことだろう。
それはさておき、今日は、津田左右吉論語孔子の思想」(岩波書店 津田左右吉全集第十四巻)について書こうと思う。これまで、論語孔子に関する本を何冊か読んだが、論語の文章に対する注釈、すなわち訓詁か、論語史記に書かれている材料を使って孔子の生涯を再構成した伝記かのいずれかで、論語孔子の思想の特徴を客観的に分析しようとしたものがなかったから、その意味でこの津田左右吉の本は新鮮だった。例によっていくつか引用しようと思う。

……論語において孔子の思想もしくはそれに近いと考へられるものを見ると、それは実践的意味をもつた教訓であり、そのうちには処世の術を説いたものすらもある。仁とか孝とかまたは政とかについて説いたことばが、あひての人によりばあひによつて、それぞれにちがつてゐるもの、多くは、それがその人に対しそのばあひにおける教訓としていはれたからのことであらう、と解せられる。……簡単なことばにはなつてゐるが警句めいたところはなく、また権威あるものの如くに語つてもなく、すべてが説明的であるが、これはかならずしも筆者の書きかたの故ではなく、孔子の態度がおのづからそれにあらわれてゐるもであらう。教訓のことばならば、さうあるべきはずだからである。

論語は、断片的で、時には相互に矛盾する言葉が、ゆるやかに編集されている。老子墨子といった諸子百家の著作に比べ、整合性のあるまとまった思想が表現されているわけではない。たしかに、津田左右吉の言うように、孔子には整合性のある思想を語ろうという指向がなく、弟子に対してそれぞれの場面に応じた教訓を与えようとしていたとすれば、そのまとまりのなさは納得できる。

……(山羊註:孔子のことばが語られた状況が記されず)たゞことばだけが記されてゐるとすれば、抽象的な一般的な思想は、なほさら抽象的一般的になり、具体的な特殊なことがらについていつたこともまた、抽象化され一般化せられて、読むものの知識に入って来る。ことばだけの記されている論語のかういふものに、格言とか金言とかいふものと同じような感じをわれわれに与へるものがあるのは、これがためであるが、孔子のことばを記し伝えた儒家は、却つてさういふところに意味があると思つてゐたのであらう。

……いひかたが、多くのばあひ、甚だ簡約である、といふことである。そのことばだけでは、どういふ考でいはれてゐるのか、何ごとがいはれてゐるのか、わかりかねるやうなものさへある。……後世の注釈家が思ひ思ひにさまざまの説明をしてゐるのは、一つはこれがためである。

その教訓の言葉が、語られた状況説明がなく言葉のみが伝えられた結果、多様な解釈ができるようになった。そこに論語の魅力が生じたのだと思う。論語から孔子の体系的な思想を導きだすことはできない。しかし、その言葉は、読者の文脈に応じて解釈されることで、新鮮な意味を持つことができる。平易な言葉で語られていることも、親しみを持つことができる。
老子は、それなりに体系的に思想が語られているが、その思想そのものからはあまり魅力が感じられなかった。自由な解釈を許す論語の方が現代的な魅力を持っていると思う。
最後に論語のなかでお気に入りの言葉のひとつ引用して、例によって自分勝手に解釈をして、今日のエントリーを終わりとしたい。

子曰、由、誨女知之乎、知之為知之、不知為不知、是知也、
子の曰わく、由よ、女(なんじ)にこれを知ることを誨えんか。これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らずと為せ。是れ知るなり。
先生がいわれた、「由よ、お前に知るということを教えようか。知ったことは知ったこととし、知らないことは知らないこととする、それが知るということだ。」(為政 17)

由とは、弟子の子路のことである。どのような文脈で孔子が子路にこのような教訓を述べたのかわからないが、逆にそれだけに誰もが自分の文脈に結びつけることができる格言、金言となっていると思う。そして、「知之為知之、不知為不知、是知也」という無駄のない、簡潔で平易な表現も魅力的だ。

論語 (岩波文庫 青202-1)

論語 (岩波文庫 青202-1)

老子 (講談社学術文庫)

老子 (講談社学術文庫)

墨子 (講談社学術文庫)

墨子 (講談社学術文庫)