テイクオフ

今朝は久しぶりに元気があってジョギングをすることができた。満開になった梅の木の下を選んで走っていると、花の香りが漂ってくる。甘かったり、酸っぱかったり、木ごとに香りが違っていることに気がついた。体調がいい方向に向かえばいいなと思う。
昨日の夜は実家に帰って両親と夕食を食べた。最近、論語を読んでいたせいか、儒教や仏教などの思想、宗教の話題になって、帰りがけに父親から「私だけの仏教」という本を借りてきた。このウェブログに感想を書けば、直接報告する手間が省けていいと思う。
「入門」を謳った新書だが、安直ではないバランスのとれた本だと思う。例によって印象に残った一節を引用したい。

「七仏通戒偈」とは、次のようなものだ。

諸悪莫作 諸々の悪をなすことなかれ
衆善奉行 衆(おお)くの善を奉行せよ
自浄其意 自ら其の意(こころ)を浄むる
是諸仏教 是れ諸仏の教えなり

……

 この偈全体から何を読みとるかは人によってさまざまだろうが、私がまず感じるのは、意を浄めることをとても重視し……、その際、悪いことをしない、ということが、善いことをすることよりも優先されているのは重要だと思う。……どんなに悪いことをしなくても、それじたいは自慢できるほどのことではないからだ。善いことは、すればどうしても自慢の種にもなるし誇りたくもなる。しかしそれは意を浄めるどころか汚すことになるのだとこの偈は語っているように読める。

確かに、自分が善を為している、善であるという思いが傲慢さを招くことはよくあることだと思う。単純に善を肯定しないというような、仏教のこういった思想は洗練されていると思う。
論語には、傲慢であることを戒める言葉はあるけれど、あくまでも現世的な栄達を求めないといったことであって、善を求めることに疑問を抱くような繊細な考察はなされていないと思う。それが、儒教の説教臭の原因にもなっているのだろう。

子曰、惟仁者能好人、能悪人、
子の曰わく、惟だ仁者の能く人を好み、能く人を悪(にく)む。
先生が言われた、「ただ仁の人だけが、(私心がないから、本当に)人を愛することができ、人を憎むこともできる。」(里仁 3)

仁者になれば、また、仁者であれば、人間の評価をしうると言っているかのようである。こういった言葉には、論語の傲慢さを感じてしまう。

私だけの仏教 あなただけの仏教入門 (講談社+α新書)

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論語 (岩波文庫 青202-1)

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