花粉症

昨日、近所のスーパーマーケットに行く途中、久しぶりに野良猫の「ぬし」に会った。
猫にも花粉症があるのだろうか、眼から涙が流れていて、何かを訴えるように鳴いていた。ぬしにあげようと思っていた固形のキャットフードを二粒あげると、噛みもせず飲み込んで、もっとないかと手のひらをぺろぺろとなめ、甘噛みをする。
野良猫の生活もたいへんそうだ。
今日、なんとなく敬遠してずっと本棚に入れたまま放っておいた村上春樹訳の「ロング・グッドバイ」を読んでみた。
清水俊二訳は省略や誤訳が多かったというが、村上訳は清水訳に比べて生硬だと思う。もちろん、村上春樹はそれを意図的にやったはずだけれども、結果としてどちらの訳を好むかは人によって分かれるように思う。
具体的に比較してみよう。開店したばかりのバーについて語るテリー・レノックスのせりふ。清水訳、村上訳、原文の順で引用しよう。

  • 清水訳

「僕は店をあけたばかりのバーが好きなんだ。店の空気がまだきれいで、冷たくて、なにもかもぴかぴかに光っていて、バーテンが鏡に向かって、ネクタイがまがっていないか、髪が乱れていないかを確かめている。酒のびんがきれいにならび、グラスが美しく光って、客を待っているバーテンがその晩の最初の一杯をふって、きれいなマットの上におき、折りたたんだ小さなナプキンをそえる。それをゆっくり味わう。静かなバーでの最初の静かな一杯―こんなすばらしいものはないぜ」

  • 村上訳

「夕方、開店したばかりのバーが好きだ。店の中の空気もまだ涼しくきれいで、すべてが輝いている。バーテンダーは鏡の前に立ち、最後の身繕いをしている。ネクタイが曲がっていないか、髪に乱れがないか。バーの背に並んでいる清潔な酒瓶や、まぶしく光るグラスや、そこにある心づもりのようなものが僕は好きだ。バーテンダーがその日の最初のカクテルを作り、まっさらなコースターに載せる。隣に小さく折り畳んだナプキンを添える。その一杯をゆっくり味わうのが好きだ。しんとしたバーで味わう最初の静かなカクテル―何ものにも代えがたい」

  • 原文

'I like bars just after they open for the evining. When the air inside is still cool and clean and everything is chiny and barkeeep is giving himself that last look in the mirror to see if his tie is straitghet and his hair is smooth. I like the neat bottles on the bar back and the lovely shining glasses and the anticipation. Ilike to watch the man mix the first one of the evening and put it down on a crisp mat and put the little folded napkin beside it. The first quiet drink of the evening ina quiet bar ― that's wanderful.'

清水訳では、"barkeep"を「バーテン」と訳しているのは今となってはやや古い感じで、現在だったら村上訳の「バーテンダー」が自然だろう。この部分では、それ以外は清水訳もそれほど古いようには感じられない。
村上訳では「心づもり」と翻訳されている"the anticipation"を清水訳は省いている。たしかに、この言葉は自然な日本語に訳しにくいと思う。村上訳の「そこにある心づもりのようなもの」という文章はいかにも生硬な翻訳調になっている。清水訳は、正確な翻訳という意味では問題だが、全体としてはテリー・レノックスの言いたいことが損なわれているわけではないだろう。訳者解説で村上春樹は清水訳のことを「大人の風格がある」と評しているが、このように細かい語句にとらわれないあたりを指しているのかもしれない。
そして、最後の"that's wanderful"が、清水訳では「こんなすばらしいものはないぜ」、村上訳では「何ものにも代えがたい」となっている。もし、この会話を映画のシナリオとして翻訳するのであれば、まちがいなく清水訳の方が自然な会話になっていると思う。しかし、このような口調に翻訳してしまうと、テリー・レノックスの個性がある方向に限定されてしまうだろう。村上訳の方は、会話としてみると固い表現だが、より中立的だと思う。
このあたりが、村上春樹の新訳のねらいでもあり、好みが分かれる部分だと思う。翻訳の選択肢が増えることはいいことだと思う。原文を読んでいた村上春樹自身が清水訳に違和感を感じることも理解できるし、村上訳を取る読者もいると思う。私自身は清水訳のなめらかでおおらかな方を買いたいと思う。

ロング・グッドバイ

ロング・グッドバイ

The Long Good-Bye (Textplus)

The Long Good-Bye (Textplus)