運命

あいかわらず若桑みどり「クアトロ・ラガッツィ」を少しずつ読み進んでいる。
島原の乱が起こった島原にあったイエズス会の学校、有馬セミナリオの生徒の履歴について次のように書かれている。

 たとえば、西ロマーノは有馬出身、1570年生まれ。ラテン語が優秀。イエズス会に入って1607年有馬の修練院で説教の翻訳を引き受けていたが、1614年家康の追放令でマカオに亡命した。マカオで倫理神学を勉強して司祭になったと思われる。1620年のイエズス会名簿には、「彼は能力があり、二年間神学を学び、日本文学に通じ、日本語で説教ができる」と高く評価されている。彼は1625年にペドロ・モレホン、アントニオ・カルディムとともにシャムに布教に行き、1630年シャムの革命で投獄され、32年釈放されてマカオに戻った。おそらくマカオで死んだ、国際人である。
 北もしくは喜多パウロは有馬出身、1570年生まれ。1630年3月1日拷問にかけられ、裏切った。大多尾マンショ、大村出身、1568年生まれ。ラテン語、音楽巧み。1592年画才を買われ、1581年に日本に派遣された画家ジョヴァンニ・ニコラオが天草志岐に設立した日本最初の聖像学校で弟子となった。1614年の大追放でマカオに追放されそこで死んだであろう。進士アレキシスは豊後出身、1567年生まれ。1614年マカオに追放。その後日本にもどりイエズス会を出た。棄教。辻トマスは大村出身。十七歳。ラテン語優秀。1603年、使節のひとり原マルティーノとともに長崎で勉強し、説教もしていた。1614年マカオに追放されたが、すでに倫理神学をおさめ、よい教師になったと記載された。1618年日本にもどり、1627年長崎で捕らえられ、同じ年の九月六日、その宿主の槙ルイスおよびその養子ジョアンとともに長崎で火刑に処せられた。1867年七月七日、福者、殉教者として教皇ピウス九世によって列福された。
 市来ミゲル。諫早出身。十七歳。1603年長崎の印刷所で和洋活字の鋳型を切っていた。三十四歳でチフスで死んだ。石田アマドール。長崎出身。十八歳。ラテン語、音楽、日本文学とも優秀。1602年マカオに勉強に行って倫理神学を学んだ。帰国後広島で司祭として働き、1616年の終わりか17年の始めに逮捕され、三年間牢獄。1629年長崎で再逮捕され、大村の牢獄に入った。1631年有名な雲仙の地獄で硫黄責めにあい、1632年九月三日、長崎に西坂で火刑に処されて殉教した。福者となった。(pp299-300)

東南アジアに日本町があったことやバテレン追放令について、歴史的な事実としての知識はあった。しかし、このように固有名詞を持った人々の経歴を見ると、集団としての歴史的事実とは違った感慨がある。淡々とした記述が印象深い。戦国時代に、ラテン語を使って神学を研究し司祭になった日本人がいて、そして過酷な運命に見舞われていたのであった。