充実感

午前中、布団の中でうとうとしながら、今日書くエントリーの文章を頭のなかで練っていた。練り上がったところで、いざ書こうとしたら、頭のなかいったんできあがったものをキーボードを使って再現するのがめんどうくさくなってしまった。なので、頭のなかで完成した文章も適当に使いながら、インプロビゼーションも織り交ぜながら書いていこうと思う。
人は、コンピューターを使って文章を書く時、事前にどのくらい頭なかで文章を組み立てているのだろうか。私の場合、テーマとおおざっぱな構成と鍵となるセンテンス、引用する場合には引用箇所ぐらいは頭に思い浮かべながら、書き始めることが多い。もちろん、書いているうちに構成がかわることもあるし、落ちまで決めずに書き始めてやっぱりうまく落ちがつかないということもある。けれども、いちおうテーマと構成があるエントリーができあがっている(と思いたい)。菊池寛のいわゆる「テーマ小説」が、テーマはわかりやすいけれど、型にはまっていて底が浅く見えてしまうように、最初に予定していたテーマと構成にしばられて自由に話を展開することができなくなっていると思うときもある。みなさんはどうやって文章を書いているのだろうか。
さて、話を変えよう。
おとといの金曜日は、うつ病の診察の日だった。先生から「最近充実しているって思うときはありますか」と聞かれて、答えに窮してしまった。あらためて考えてみると、充実している時間などまったくないような気がして、しかし、そのまま「最近ぜんぜんありません」と答えるのもいやな気がして、「えーっと、本を読んで、それをネタにブログを書いているときとか」と答えてしまった。答えながらも、ブログを書いているときがそんなに充実しているのかさっぱり確信が持てなかった。
昨日は、その問答が気になって、「充実した休日」というものを過ごしてみようと思い、張り切った。午前中は、ガイドブックやウェブサイトを眺めながら、夏休みの四国旅行の計画を練っていた。鳴門の渦潮を見て、鳴門の鯛を食べ、阿波踊りを見た後、四国八十八ヶ所の一番札所に行き、讃岐うどんを食べ、金比羅さまにお参りをして、高知で太平洋の魚を食べ、四万十川で遊ぶという盛りだくさんの予定である。旅程と予算をエクセルでまとめ、充実した計画をたてて満足をした。午後はつれあいと散歩をかねてサンシャインシティまで買物に行った。成城石井セレクトでチーズを買い、メゾンカイザーでバケットを買った。クリーニング店でシャツを受け取った後、近所のスーパーで食材を買った。家に着いた後、赤ワインを開けて、バケットとチーズでワインを飲みながらパスタとサラダを作った。テレビを見ながら夕食を食べていたら、いつの間にかワインが一本開いていた。
楽しく、用事も済ますことができ、いい休日だったと思う。しかし、これは「充実した休日」だったのだろうか。そして、この日の過ごし方を説明すれば「最近充実しているって思うときはありますか」という問いの答えになっているのだろうか。
確かに「充実した休日」だったのだろうと思う。しかし、こんな毎日こんな過ごし方をすれば充実している、とは言えないだろうとも思う。平凡だけれども、「充実した平日」があっての「充実した休日」なんだろうと思う。
十年以上前になるけれどこんな文章を書いていた(http://www.lares.dti.ne.jp/~ttakagi/diary/diary/9703.htm#19970306)。いまでも同じようなことを考えている。「充実した平日」とは、自分のことを「余人を持って代え難し」と思えるような瞬間があるような日だと思う。ただ、この文章を書いたときは、ほんとうにすばらしく格好のよい「余人を持って代え難」き存在になりたいと思っていたけれど、今はそこまで大きなことは考えていない。ささやかなことでも人に役立つことができたという感覚を得ることができればいいと思っている。例えば、以前であれば、自分で企画書の作成を取り仕切り、プレゼンをして、コンペに勝っていい気持ちになりたいと思っていた。今は、それはできない。企画書を作る会議に参加して、これまでの経験からなにか一つでも有益な意見を言うことができればいい、と思う。そんな場面が毎週1回ぐらいでもあれば、それは「充実した平日」であり、「余人を持って代え難」き自分なのだろうと思う。