非実用的な読書

昨日のエントリーについた稲本のコメント(http://d.hatena.ne.jp/yagian/20080707/1215403450#c)で、「伊沢蘭軒」を読んだことがあるか尋ねられたので、最後まで読みとおしたことがないことを白状した。
考えてみれば、「伊沢蘭軒」を読みとおすことほど、実用的に意味がない読書もないような気がする。その意味では、気分転換に最適かもしれないと思い、「伊沢蘭軒」の最初50ページほど読み返してみた。
同じ史伝ものという分類になっているけれど、「渋江抽斎」と「伊沢蘭軒」では肌合いが違っていると思う。「渋江抽斎」は、なれれば退屈しないし、スリリングですらあるけれども、「伊沢蘭軒」はどう考えても退屈である。「渋江抽斎」は、抽斎の息子である渋江保が提供した材料を使って書かれている。渋江保自身、文筆家であったから、その素材が面白く書かれていたのかもしれない。「伊沢蘭軒」は、蘭軒が書いた漢詩が多く引用されている。現代人である自分にとって、漢詩を味わうことが困難なため、「伊沢蘭軒」を楽しむ上で大きな障害となっている。
伊沢蘭軒」のなかで、鴎外は次のように書いている。

 わたくしが渋江抽斎のために長文を書いたのを見て、無用の人を伝したと云い、これを老人が骨董を掘り出すに比した学者である。此の如き人は蘭軒伝を見ても、ただ山陽茶山の側面観のみをその中に求るであろう。わたくしは敢えて成心としてこれを斥ける。わたくしの目中の抽斎やその師蘭軒は、必ずしも山陽茶山の下には居らぬのである。

鴎外は、渋江抽斎伊沢蘭軒が、頼山陽や菅茶山に劣らないと書いている。確かに、「渋江抽斎」を読むと、鴎外の抽斎への愛情がひしひしと伝わってくるが、蘭軒に対しては、抽斎の師として尊重しているものの、抽斎に対するほどの愛情が感じられない。それも「伊沢蘭軒」を退屈なものにしてしまっていると思う。
とここまで、「伊沢蘭軒」を退屈だとけなしてきたが、だったら最後まで読んでみろと、自分に対して思う。鴎外自身、読者が退屈するのは承知で書いていたようである。この退屈さに最後まで付き合うと何がわかるのか、知りたい気持ちもある。

森鴎外全集〈7〉伊沢蘭軒 上 (ちくま文庫)

森鴎外全集〈7〉伊沢蘭軒 上 (ちくま文庫)

森鴎外全集〈8〉伊沢蘭軒 下 (ちくま文庫)

森鴎外全集〈8〉伊沢蘭軒 下 (ちくま文庫)

渋江抽斎 (岩波文庫)

渋江抽斎 (岩波文庫)