「道具箱(ツールキット)としての文化」と「ブリコラージュ」

うつとほぼ同時に腰痛になった。最近は、腰に違和感を感じるぐらいで、痛みは感じない程度で済んでいる。しかし、朝起きる時は、慎重に身体を起こすことにしている。
今までは和室に布団を敷いて寝ていたけれど、腰痛のことを考えて、腰にやさしいベッドを買うことにした。その前提として、和室の畳をはがして、フローリングにするリフォームをすることにした。今日はそのリフォームの三日目、最終日である。初日、二日目はつれあいが家にいることができたけれど、三日目の今日は私が有給休暇を取って家にいる。家の中はばたばたして落ち着かないけれど、することもないので、例によって本を読みながら、まとめのマインド・マップを作っていた。
佐藤郁哉山田真茂留「組織と文化 組織を動かす見えない力」のなかで、アン・スウィドラーが提唱したという「道具箱(ツールキット)としての文化」という考え方が紹介されていた。これが、自分がイメージしていた文化観と近く、共感できた。例によって引用してみたいと思う。

「道具箱(ツールキット)としての文化」は、それまで多くの社会学理論が前提としていた、個人を文化のプログラムの指令に忠実にしたがう自動人形(ロボット)のようにとらえる見方に対するアンチテーゼとして提出されました。……文化には、むしろ、様々な生活習慣や生活上の技術とスタイルが入っている一種の道具箱としての側面があるのだ、というのです。……個人は、その時々の状況に応じて文化の道具箱から特定の道具を選んだり、複数の道具を組み合わせて使ったりして生活上の必要に対処するのだとします。…「文化が人間を従順なロボットのようにして使っている」ようなとらえ方をしていたのに対し、スウィドラーは、むしろ人間の方が文化の中の特定要素を生活上の道具として能動的かつ主体的に選んで「使う」こともあるのだ、と主張するのです。
(pp285-286)

マクロに見れば、人間は文化や言語の拘束を受けて同じような行動、言動をしているように見える。しかし、ミクロに、個々人の立場から見れば、それぞれの個人の主体性があり、文化や言語のロボットというわけではない。この矛盾を解消しようとすれば、スウィドラーのような考え方に至ることになるだろう。道具箱(ツールキット)は文化や言語によって用意されており、その運用は個人の主体性にまかされているというわけである。
「組織と文化 組織を動かす見えない力」では、この考え方は、アン・スウィドラーが提唱したと書かれているが、似たような考え方はかなり一般的なのではないかと思う。レヴィ=ストロースが「野生の思考」のなかで提唱したブリコラージュも「道具箱(ツールキット)としての文化」とよく似た考え方だと思う。
残念ながら、リフォーム中のため、「野生の思考」は荷物の奥にあって、引用することができない。記憶をたどってブリコラージュについて書いてみる。一から設計するのではなく、入手可能な要素を組み合わせて目的を達成するような仕事の仕方をブリコラージュと呼び、この方法を未開における思考(野生の思考)の特徴と指摘している。例えば、神話というのは、象徴として利用可能なものごとを組み合わせた思考形態、つまり、ブリコラージュだという。
ブリコラージュの方が、用いる対象物が文化に限らないだけ広い概念であり、アン・スウィドラーの「道具箱(ツールキット)としての文化」の概念をほぼ包含していると思う。
このウェブログも、誰かが書いたことをつぎはぎしながら書いている。元ネタはすでに書かれたことがらだけれども、つぎはぎの仕方に多少の主体性や新味があればいいと思っている。まさに、ブリコラージュ、「道具箱(ツールキット)としての文化」を実践しているのだろう。

制度と文化―組織を動かす見えない力

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野生の思考

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