衒気

頭の中の霧が晴れて、ひさしぶりに本を読む気が湧いてきた。本棚を眺めて漱石の「彼岸過迄」を手に取った。漱石自身が書いた前書きにこんなことが書いてあった。

……ただ自分らしいものが書きたいだけである。手腕が足りなくて自分以下のものが出来たり、衒気があって自分以上を装うようなものが出来たりして、読者に済まない結果を齎すのを恐れるだけである。

自分もこのウェブログを書く時に、自分以上でもなく、自分以下でもないように書きたいと思っている。たいした自分というものがあるわけではないから、「手腕が足りなくて自分以下のもの」ができる心配はないけれど、「衒気があって自分以上を装うもの」にならないようにするのは難しい。
記憶があいまいだから引用はできないけれど、鴎外がどこかで、何か書くということはすべて自己弁護である、という意味のことを書いていた。それを読んで、いかにも鴎外らしい言葉だと思った記憶がある。
このことに関しては、漱石先生より鴎外先生の方が真実に近いと思う。どれだけ衒気がないように書こうと思っても、書くという行為そのものに自己弁護がつきまとっていると思う。
昨日のウェブログで、頭の中の霧について書いた。書いた内容については、誇張もなく、事実そのものである。しかし、それをウェブログという媒体にわざわざ書いたというところに衒気や自己弁護という気持ちがある。ありていにいえば、同情を買いたいから書いたのである。
頭なの中に霧がたれ込めている時はつらい。同情してもらいたい。しかし、会社では、自分が不要の人材と思われたくないから、調子が悪いということを見せず、順調に回復しているかのように装ってしまうから、調子が悪いことに対して同情を買うことができない。だから、会社から切り離されているウェブログという媒体で、実はつらいのだという自己弁護をしてしまっている。

彼岸過迄 (岩波文庫)

彼岸過迄 (岩波文庫)