ミッシェル・フーコー「監獄の誕生」

ミッシェル・フーコー「監獄の誕生」を読んだ。
フーコーは、大学時代に何冊か読んだことがあるけれど、おもしろいことを書いているような気がするけれど、よく理解できなかった記憶がある。今回もよく理解できない部分が多かったけれど、どこか心惹かれるところがある。
途中で挫折しないように、一章を読み終えるたびツィッターにその章の要約を書きながら読み進んだ。まず、その要約をまとめてみようと思う。

第一部 身体刑
 第一章 受刑者の身体

  • 近代以前の刑罰は過酷な身体刑であり、見せ物でもあった。近代になって、身体刑は姿を消し、矯正・感化・治療を目的とした精神を対象とした刑罰になった。この歴史を明らかにすることで「知の客体としての人間を生み出す」ことが理解できるだろう。

 第二章 身体刑の華々しさ

  • 身体刑は、拷問を通じて自白を導く、公開された処刑によって人々の前で犯罪を再現する、国王の権力を顕現させるという三つの機能を持っていた。

第二部 処罰
 第一章 一般化される処罰

  • 古典主義時代の犯罪は王への反逆であり、処罰は王の権力を顕現させる見せ物としての身体刑だった。18世紀後半、ブルジョワジーが台頭とするとともに、犯罪は財産権への侵害となった。処罰は犯罪を抑止することを目的とするようになり、一貫した裁判、犯罪と処罰が合理的に対応した法体系などを求めた司法改革が主張された。そのなかで、王の権力の顕現である身体刑への反対する意見が高まった。

 第二章 刑罰のおだやかさ

  • 18世紀末の司法制度改革論者は、処罰は犯罪を象徴するものとし、犯罪を試みるときに処罰を連想させることで犯罪を抑止することを主張した。処罰は犯罪の表徴する記号体系となり、犯罪の多様さに対応して、多様なものになる。19世紀に入ると、多様な処罰に代わり監禁中心の処罰となった。死刑と罰金刑の中間にある監禁が可能な処罰のほとんど全領域を占めるようになった。監禁では、犯罪者は厳格に監視、管理され、強制労働を通じが矯正が目指された。かつては犯罪を象徴する処罰は公開されることが特徴だったが、監禁刑は秘密となる。

第三部 規律・訓練
 第一章 従順な身体

  • 17世紀から18世紀にかけて、身体を束縛、管理する規律・訓練(ディシプリン)が支配の一般的な方法として学校、施療院、軍隊などに普及した。規律・訓練(ディシプリン)は、身体を空間的、時間的に管理し、有機的に組み合わせる。こうした規律・訓練(ディシプリン)から、近代ヒューマニズムにおける人間が誕生した。

 第二章 よき訓育の手段

  • 君主権は自らを威厳ある儀式などで顕示するが、規律・訓練による権力は自らを隠し、権力行使の客体としての人間を個人として析出する。規律・訓練による権力は、次の三つの方法を用いている。第一は、個人に対する監視の視線である。第二に、逸脱を矯正感化する報償と懲罰である。これにより、個人を規格化、序列階層化する。第三に、報償と懲罰の基準となる試験である。規律・訓練による権力は、この三つの方法で軍隊、病院、学校、監獄、工場に広がって行く。

 第三章 一望監視方式

  • ベンサムは「一望監視施設(パノプティコン)」と呼ばれる監獄の建築様式を提案した。円環状の建物の中心に監視塔があり、円周の建物の内側に向かって窓が開けられた独房が並んでいる。独房からは監視塔の内側を見ることはできない。一望監視施設では、実際に監視されている、いないに関わらず、囚人は常に監視する視線を感じ、その視線を内面化するに至る。この一望監視施設をモデルとする一望監視方式の権力の行使は、社会全体に及び、規律・訓練的な社会が形成される。

第四部 監禁
 第一章 「完全で厳格な制度」

  • 監獄は自由の剥奪という処罰を行うとともに規律・訓練を行う矯正の機能を持っている。矯正のために、受刑者は独房に隔離され、孤立化によって反省をさせられる。また、労働を強制し、受刑者を改心させる。司法は、法律違反行為に応じて判決を下す。一方、監獄は、受刑者の矯正の度合いに応じて、その扱いを変える。監獄は、司法に対して独立した権力を持つようになる。

 第二章 違法行為と非行性

  • 懲罰は犯罪の減少に役立っていないという批判があるが、監獄制度は存続している。それは、監獄制度の役割が犯罪の減少ではなく、前科者のレッテルを付け、彼らを活用することにある。前科者は監視され、また、密告者として社会の監視に利用される。また、前科者たちの逸脱行為は、潜在的な支持者となりうる庶民と切り離されることで、社会制度への反抗ではなく、政治的に危険のない限られた犯罪行為に限られる。

 第三章 監禁的なるもの

  • 監獄は孤立しているわけではなく、他の一連の監禁装置とすべてつながっている。権力中枢が存在しているかわりに、各種の構成要素、障壁、空間、制度、規則、言語表現からなるネットワークによって、身体は強制服従させられる客体となる。

「監獄の誕生」に限らず、フーコーの本は難解である。それには、三つの理由があると思う。
一つ目は、フーコー独自の用語である。フーコー独自の用語がこなれない日本語に置き換えられていて、結局、原語がわからないとその意味やニュアンスが理解できない。
二つ目は、フランスの歴史などの教養を前提として書かれていることである。「監獄の誕生」では、フランス革命前後の変化について語られているが、その時代の歴史についてある程度の知識がないと理解できないところがある。
三つ目は、フーコー以前には誰も考えていなかったオリジナルな内容を表現しようとしているため、さまざまな比喩が使われていることである。フーコー独自の比喩はなかなか理解が難しい。
すらすらと読み進めることができず、一つの文章を何回も読み返したり、いきつもどりつしながら読んでいた。個々の文章は理解できないことが多いけれど、我慢して読んでいると、だんだんフーコーはこんなことを言いたいのではないかと、おぼろげながら理解できるようになってくる。
フーコーが言いたかったのは、古典主義時代には「権力」は自分を誇示していたが、近代になって「権力」は見えにくくなったけれど、社会のなかに浸透し、さらには、「権力」が内面化され、より強く個人を支配するようになったということだと思う。
振り返って見ると、自分は、家庭、学校、会社などの場で、規律・訓練を通じた「権力」の対象となり、それを内面化してきたと思う。私は、怠惰で上昇志向に欠けている人間だと思う。そのような自分であっても、少々つらくても自主的に朝起きて会社に行き、監視されていなくても会社のためにと思って働いているし、時には自分より速く昇進した同期を見ると、自分も昇進したいと思ったりする。
フーコーを読むと、そんなことが「自然」なことではなく、近代社会に特有の現象だということがわかる。だからといって、その「権力」に積極的に反抗しようとまでは思わない。しかし、たまに「権力」に服従させられることがつらくなることがある。自ら積極的に生きなければならないと思うことがつらくなる。そんなとき、積極的に生きなければならないことが決して「自然」なことではないことを理解していれば、自縄自縛から抜け出して心を軽くすることができる。

監獄の誕生―監視と処罰

監獄の誕生―監視と処罰