いま、子安宣邦「本居宣長とは誰か」を読んでいる。
この前は、ミッシェル・フーコー「監獄の誕生」を読んでいた(id:yagian:20100523)。あれだけ難解な本を読んだ後だと、新書が実に読みやすく、わかりやすく感じられる。たまにはおもいきり難解な本を読んで、頭脳のトレーニングをするのも悪くないと思う。
余談はさておき、「本居宣長とは誰か」に戻ろう。
もうすでに言い尽くされていることだと思うが、改めて、本居宣長は近代的なことを語っていると思う。源氏物語について語った「紫文要領」を「本居宣長とは誰か」から孫引きする。
…ただ人情の有りのままを書きしるして、みる人に人の情(こころ)はかくのごとき物ぞといふ事をしらする也。是物の哀れをしらするなり。さてその人の情のやうをみて、それにしたがふをよしとす。是物の哀れをしるといふ物也。人の哀れなる事をみては哀れと思ひ、人のよろこぶをききては共によろこぶ、是すなはち人情にかなふ也。物の哀れをしる也。人情にかなはず物の哀れをしらぬ人は、人のかなしみをみても何共思はず、人のうれへをききても何共思はぬもの也。かやうの人をあししとし、かの物の哀れを見しる人をよしとする也。(p119)
源氏物語は、人の情をありのままに書いて、読む人に人の情とはこのようなものだと伝えるものだ。人の悲しみを見て悲しいと思うように、人の情に共感することがよいことなのだという。
江戸時代には、物語は勧善懲悪を通じて、人々に仏教や儒教の道徳を伝えることが目的だとされていた。源氏物語もそのような作品として解釈されていた。これに対して、本居宣長は、源氏物語は「人情の有りのままを書きしるして」いることが重要だと指摘している。
明治時代に入ると、西洋の文学を学んだ坪内逍遥が「小説神髄」で「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ」と書き、江戸時代の勧善懲悪の文学理論を否定し、新しい文学理論を提示したとされている。しかし、本居宣長の源氏物語論は、「小説神髄」の理論を先取りしている。
近代以降、源氏物語を道徳のための物語として読む人はいないだろう。また、大方の小説は「人情の有りのままを書きしる」すものとなっている。なぜ、本居宣長がこのような近代的な発想に至ったのか知りたいと思う。本居宣長が近代的な人だったのか、それとも、たまたま近代的に見えるだけなのだろうか。
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