弁証法的対話ーマイケル・サンデルの思想と実践ー

毎週日曜日の夕方、ハーバード大学マイケル・サンデル教授の政治哲学の講義をテレビ番組にした「ハーバード白熱教室」(http://www.nhk.or.jp/harvard/)をつれあいと一緒に楽しみにしていた。
サンデル教授が抽象的な議論や過去の哲学者の思想を一方的に説明するのではなく、具体的な事例に基づき、学生とサンデル教授、学生同士が議論をしながら講義は進行していく。まるで、自分も議論に参加しているような感覚がありいろいろ考えさせられることが多かった。また、過去の哲学者の思想が現代の問題にどのように関わるのか理解できるようになったような気がした。
しかし、一般教養とはいえ、ハーバード大学の講義であり、難易度が高かった。ちょっと目を離すと、議論の展開に付いていけなくなる。いろいろな疑問点が残った。この講義の内容が出版されたという話を聞きつけ、復習のために「これからの「正義」の話をしよう」を買った。
この「これからの「正義」の話をしよう」では、現実の正義に関わる問題を事例にして、ベンサム功利主義、カントとロールズリベラリズムアリストテレスの目的論の三つの立場からの議論を対比して書かれている。サンデル教授自身は、最終的にはアリストテレスの立場に基づくコミュニタリアリズム(サンデル教授は「コミュニタリアリズム」という名称に違和感を感じているようだが)を主張するけれど、できうる限りそれぞれの立場に公平に議論を進めている。
サンデル教授は、カントやロールズが主張しているリベラリズムの正義論は善や道徳を自律的に選択でき伝統やコミュニティから自由な「負荷なき人間」を前提としているが、現実的には人間はコミュニティの道徳の束縛から自由ではなく、正義を議論する時には善や道徳を避けられないと主張する。私自身は、理想主義なのかもしれないけれど、それらからの自由を主張するカント・ロールズ的なリベラリズムに共感を感じてしまう。コミュニティの道徳の束縛を前提とするコミュニタリアリズムは、どのように全体主義を回避するのだろうか、疑問に感じる。
しかし、サンデル教授が主張したかったことは、コミュニティが善や道徳についての統一を強制的に実現することではないように思う。

 特定の状況に関する判断と、熟考のうえで支持している原則とのあいだの弁証法的相克。道徳をめぐる議論のこうした進め方には、長い伝統がある。……道徳をめぐる考察は孤独な作業ではなく、社会全体で取り組むべき試みなのである。それには対話者ー友人、隣人、同僚、同郷の市民などーが必要になる。……われわれは内省だけによって正義の意味や最善の生き方を発見することはできない。……この本は…道徳と政治をめぐる考察をする旅だ。……読者にこう勧めることである。正義に関する自分自身の見解を批判的に検討してはどうだろうーそして、自分が何を考え、またなぜそう考えるのかを見きわめてはどうだろうと。(pp41-43)

サンデル教授が主張したかったことは、正解を求めることではなく、公共の場で議論して相互理解と相互尊重を深めることなのだと思う。
そして、講義の場、本書を通じて、見事にそのことを実践している。そのこと感銘を受けた。

「これからの「正義」の話をしよう」要約

第一章 正しいことをする

  • ある社会が公正かどうかを問うことは、収入や財産、義務や権利、権力や機会、職務や栄誉などの価値あるものがどのように分配されるか問うことである。公正さを考える観点には、幸福の最大化、自由の尊重、美徳の涵養の三つがある。本書では、この三つのアプローチの強みと弱みを探っていく。
  • 教科書的な説明では、古代の政治思想(アリストテレス)では正義の基礎として美徳が重視され、近現代の政治思想(カントからロールズ)では美徳を正義の基礎とすべきではなく、自由を尊重するとされている。しかし、現代政治を動かしている正義に関する議論には、美徳にかかわる観点が見られる。
  • 道徳について考えるにあたっては、具体的な状況と原則の間を往復し、社会全体での対話を通じた弁証法的相克が重要である。

第二章 最大幸福原理ー功利主義

  • ジェレミー・ベンサムは、道徳の至高の原理は幸福、すなわち苦痛に対する快楽の割合を最大化することとする功利主義を主張した。功利主義はこの原理を、個人の道徳のみならず、共同体の法律や政策の基礎とすべきと主張する。
  • 功利主義に対して、二つの反論が考えられる。一つは、共同体の幸福を最大化することを目指す功利主義は、人間の尊厳と個人の権利を十分に尊重していないこと。また、道徳的に重要なことも含めすべてのことを快楽と苦痛という単一の尺度で評価できないというものである。ベンサム功利主義は、快楽の質的な違いを認めず、人々の好みの道徳的価値を判断しない。一方で、この中立的な精神がベンサムの思想の魅力の一つとなっている。
  • ジョン・スチュアート・ミルは、功利主義を改良し、この二つの反論に答えようとした。ミルは、他人に危害を及ぼさない限り、自由であるべだと主張した。そして、この個人の権利の擁護は、社会の長期的な幸福の増大という功利主義に基礎づけた。しかし、ミルの議論は功利主義を超えた人格という理想に訴えるものとなっている。また、功利主義は価値を単一の尺度に還元する批判に対し、快楽に高尚なものと低俗なものの質の差があると主張した。しかし、この快楽の質の差の基準は、人間の尊厳に求められることになり、功利主義から逸脱することになった。

第三章 私は私のものか?ーリバタリアニズム(自由至上主義)

  • 功利主義者は、富んだ者より貧しい者の方が所得の限界効用が大きいため所得の再分配を肯定する。一方、リバタリアンは自由への基本的権利、制約のない市場を支持し、政府規制や所得の再分配に反対する。
  • リバタリアンは、自己所有権という概念に基づき、近代国家が一般的に制定しているパターナリズム的法律、道徳的法律、所得や富の再分配を拒否する。課税は奴隷制、強制労働と同様に自己所有権を侵害していると考える。また、自由意志に基づく臓器売買や幇助自殺を肯定する。

第四章 雇われ助っ人ー市場と倫理

  • 自由市場に対して、リバタリアニズムからは自発的な取引は自由を尊重している、功利主義からは取引は全体の幸福を増大するという理由で擁護する。市場懐疑主義者は、市場取引は自由とは限らず、その性質から売買に適さないものがあると考える。
  • 徴兵と代理母という例を通じて考える。リバタリアニズム功利主義は、労働市場から兵士を調達する志願制を擁護する。しかし、貧困などの理由で限られた選択肢しかない人にとっては兵士への志願は自由な選択ではない。また、兵役は市民の義務であり、それを市場に任せるのは誤りとする批判がある。契約に基づく代理母においても、自発性に基づく契約ではないとする批判(ロールズの正義論に通じる)、出産を売買することは人間の尊厳を傷つけるとの批判(カントに通じる)、妊娠と出産の本来の目的に反するとの批判(アリストテレスに通じる)がある。

第五章 重要なのは動機ーイマヌエル・カント

  • カントによれば、道徳的な行動とは、行動の結果ではなく、動機が義務に基づいていることによる。そして、自由とは、欲求に従うことではなく、理性によって自ら選択した道徳法則に自律的に従うことである。理性によって選択される道徳法則は、別の何かの手段としての善き行為ではなく、それ自体において無条件に善き行為を命じる定言命法に基づく。定言命法は、自分の格律(行動原理)を普遍的に通用するものとするように行為せよ、理性的な存在である人間性を究極目的とせよと命じる。
  • リバタリアニズムでは、人間は自己を所有し、自己を自由に扱うことができると考え、例えば、自殺も肯定する。カントは、自己も究極的な目的としての人間性を尊重することを求めるため、自己の人間性を傷つける自殺は他殺と同様に否定する。このように、定言命法は、自己の行為に制約を与えることもあり、カントの考える自由は無制限の自由ではない。そして、人間性の尊重は、基本的人権の思想の基礎となっている。
  • カントの政治論では、正義と権利は社会契約に基づくと主張している。ロックなどと異なり、社会契約は仮想上のものであるとする。この社会契約は、立法者に対し国民の総意に基づく義務を負わせ、国民にそれに同意したと見なす義務を負わせる。カントは、仮想上の契約がどのようなものか、どのような正義の原理を生み出すかを語らなかった。ジョン・ロールズがこれらの問いに答えようと試みた。

第六章 平等をめぐる議論ージョン・ロールズ

  • 公正な契約とは、当事者双方が自発的に同意すること、利益を得る互恵性があることの二つが条件となり、契約を履行する義務が生じる。ロールズは、公正な条件で結ばれる社会契約を考えるために「無知のベール」という思考実験を行った。すべての構成員が自分の属性(階級、性別、人種、経歴、嗜好など)を知らない平等な状態で社会契約を結ぶとしたら、合意される原則は公正なものとなるはずである。この「無知のベール」をかぶった状態で、合理的で利己的な個人としてどのような原則が選ばれるだろうか。
  • ロールズによると、次の二つの原理が選ばれるという。一つ目は、基本的自由をすべての人に平等に与えること。二つ目は、所得と富の平等な配分を求めるが、社会で最も不遇な立場にある人の利益になるような社会的・経済的不平等のみを認めることである。完全な平等を実現するより、最貧層の状況を改善するような不平等を認めた方が、最貧層になった場合でも、よりよい状況になりうるからである。この原理を「格差原理」と呼ぶ。また、「格差原理」は、「無知のベール」の思考実験から導出されるだけではなく、道徳的な議論によって支持される。
  • その道徳的な議論とは、所得機会は道徳的に恣意的な要素に基づいて分配されるべきではないという考え方である。リバタリアンが主張する自由市場は、形式的平等は確保されているが、社会的経済的格差、生来の才能資質といった道徳的には恣意的な条件に基づきで所得と富が分配され不公正と考える。ロールズは、努力や道徳的功績も、道徳的には恣意的な条件に基づくものとして、所得や富の分配の原理とすべきではなく、公正な分配は、格差原理に基づくルール、税制や再配分の枠組みによるときのみ実現すると主張する。

第七章 アファーマティブ・アクションをめぐる論争

  • 大学入試でのアファーマティブ・アクションの擁護論の論拠に、学生の多様性を高めることで学生の視野を広げ、マイノリティに社会の指導的役割を提供することで社会の共通善に貢献することがある。これに対し、人種や民族を入学選考の基準とすることで、本人の落ち度ではない理由で不利な立場に置かれる場合があるという反対論がある。
  • しかし、ロナルド・ドゥウォーキンは、アファーマティブ・アクションは権利の侵害にならないと主張する。入学選考基準には受験者の力が及ばない要素を含んでおり、その基準は大学自身が自ら目指す使命に従って決めるものである。入学が許可されるのは、受験者の道徳的資格に報いることではなく、大学の使命に合致することである。この見解は、ロールズの所得配分の正義の議論と一致している。
  • それでは、大学はどのような使命を定めることができるのだろうか。かつて黒人を排除した排他主義は、人種による偏見に基づくものであり、正当化できない。しかし、アファーマティブ・アクションはそのような偏見を含まないから、公正である。大学が自らの教育のための資金を得るために大学の入学許可を競売にかけることは正当化できるだろうか。ドゥウォーキンの議論には抵触しない。しかし、資金を確保することが入学選考に及ぼすことになれば、大学の品位にかかわり、大学が本来追究すべき善に反することになる。このように正義のよりどころに善を置く議論は、現代のほとんどの政治哲学が避けている。カントやロールズは、善き生の定義は人によって違うことを前提として、中立的な立場から正義と権利を導きだそうとしている。次章では、正義と善の関わりについて議論する。

第八章 誰が何に値するか?−アリストテレス

  • カントやロールズなどの現代の正義論は、名誉、美徳、善に対して中立的であろうとするが、アリストテレスは正義を定義するためには、問題となる社会的営みの目的(テロス)を知る必要があると主張する。アリストテレスは、共同体の統治者を決めるには、その目的を明らかにする必要があるとする。都市国家(ポリス)の目的は、国民の美徳の涵養であり、ポリスの統治権は、最も高徳な者に与えられるべきである。なぜなら、その者は国民の美徳を向上させる政策をとり、高徳さを評価することは市民の道徳性を高める教育的効果があるからだ。
  • アリストテレスは、人間が徳性を高めるためには、ポリスへの政治参加が必要と考えた。人間は、ポリスという場に参加することで、言語を用い正義と不正について議論し、道徳を実践することで、人間の本質を実現し、徳性を高めることができる。
  • しかし、アリストテレスは、奴隷は奴隷に適しており、市民に適さないという理由で奴隷制を擁護した。このように、社会的役割の目的と適正という概念は危険性がある。カントからロールズのリベラル派は、社会的役割は個人の選択によって与えられるべきと考える。アリストテレスは奴隷制を擁護したが、その目的論的思考には、奴隷制を否定する要素がある。奴隷に適性のある者を見分けるには、その人が奴隷に不満がないことが条件であり、強制的に奴隷にすることはその人が奴隷に適さないことを示していると考えた。
  • 正義と権利をめぐる論争は、必然的に社会制度の目的、善行の定義、称賛されるべき美徳をめぐる論争になることが多い。リベラル派の議論は、目的や善を避けようとしているが、そのことを議論せずに何が正義かを決めることは不可能かもしれない。

第九章 たがいに負うものはなにか?ー忠誠のジレンマ

  • カントやロールズは、正義の原理は善をめぐる議論から中立でなければならないと主張する。一方、アリストテレスは、正義を定義するためには、善の意味、目的を考慮する必要があると主張する。カントやロールズが、アリストテレスの考え方に反対する理由の一つは、特定の善や目的を認めると個人の自由が侵される可能性があるからだ。
  • カントやロールズが考える人間の責務は、人間が本来持っている自然的義務と合意の上で受け入れる自発的責務の二つである。しかし、歴史的不正に対する共同責任と公的な謝罪と補償、家族同胞仲間が抱く特別な責任や連帯、コミュニティに対する忠誠や愛国心といった問題を考えるためには、カント・ロールズ的な道徳的個人主義では不十分であり、合意を必要としない連帯の責務を考慮する必要がある。人間のアイデンティティはコミュニティと伝統に立脚し、カント・ロールズが仮定する自由で独立し自らが選ばなかった道徳的束縛にとらわれない「負荷なき自己」ではない。アラスデア・マッキンタイアは、人間はコミュニティの物語に埋め込まれ、目的を持った人生の物語を生きていると主張する。
  • 現実の社会では、構成員の善や目的について一致することはない。このため、カント・ロールズの政治哲学は、正義と権利の基礎から善や目的を切り離すことを試みた。一方で、現実の政治的な問題から道徳を切り離すことは不可能である。宗教戦争に移行せず公に善について議論する方法を考える必要がある。

第十章 正義と共通善

  • 正義に対する三つの考え方のうち功利主義は、正義と権利を原理ではなく計算の対象とし、あらゆる善を一つの価値基準に当てはめ質的な違いを考慮しない欠点がある。自由に基づく理論は第一の欠点を解決するが、第二の欠点は解決しない。妊娠中絶の問題には生命がいつ始まるかという宗教的道徳的議論に、同性婚の問題には、結婚の目的(テロス)とは何かという議論を避けられない。
  • 公正な社会は、効用を最大化し、自由を保証するだけでは達成できず、善の意味をともに考え、不一致を受け入れる公共の文化をつくる必要がある。共通善に基づく政治のあり方について解答は出せないが、以下のようなテーマが重要と思われる。全体への配慮、共通善への献身を市民のうちに育てること。市場の拡大に対する道徳的限界の設定。不平等の拡大による連帯感の衰退の克服。道徳的不一致に関する議論を通じた相互的尊重の醸成。

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

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