@yagian: 朝鮮半島の政治思想史の専門家古田博司は、北朝鮮の現体制への儒教の影響を論じてる。中国の共産党エリートと「読書人」は似ている感じはするねぇ。 RT @yinamoto 何となく、中国・北朝鮮の「マルクス主義」とのアナロジーで見てしまうなー。実証できないけど。
2010-07-14 09:00:33 via web
@yagian: 今週で梅雨が明けるという天気予報。早く今週が終わらないかと思う。今日の通勤の音楽は矢野顕子。#nowplay
2010-07-14 08:19:46 via web
@yagian: 丸山眞男は、徳川体制の矛盾が大きくなり、体制にとって徂徠学が許容できなくなり、寛政異学の禁によって体制肯定的な朱子学が再興されたと言っている。しかし、そもそも徂徠学が体制の学であったことが無かったわけだから、体制が徂徠学を脅威に感じるという丸山眞男の説は成り立たないと思える。
2010-07-14 06:10:28 via web
@yagian: 前田勉は「江戸後期の思想空間」で、商品経済の浸透による社会の変動が、本居宣長の神への崇拝の契機になったという。一方、渡辺浩は「東アジアの王権と思想」で、「泰平の世」の意識が中国に対する優越感、「皇国」意識を生んだという。社会と思想の関係に関する解釈は難しいし、どこか怪しげである。
2010-07-14 06:06:01 via web
@yagian: 続き:泰平の世を背景として、中国はそもそも乱れる国柄であるため「聖人の道」が必要とされ、「聖人の道」があっても乱れるが、日本は自然と治まる「皇国」として日本の優越性を主張した。この「皇国」の世界像は、国内の「泰平」が外圧に脅かされるようになって、一層高揚した。
2010-07-14 06:00:30 via web
@yagian: 続き:このため、徂徠学の政治的側面の有用性が疑問にさらされ、徂徠の弟子たちに政治離れが進んだ。また、日本は中国と異なり、人為的な「礼楽」を必要とせず、自然と治まるとする考え見られるようになった。賀茂真淵は、そのような議論を利用し、「皇国」の「唐国」への優位を主張した。
2010-07-14 05:55:36 via web
@yagian: 続き:18世紀後半、都市においては豊かな繁栄と永続的安定の時代とする意識は稀ではなかった。荻生徂徠はあらゆる体制も永続しないと考え、徳川の支配にも危機感を持ち、将軍吉宗に提言していたが、受け入れられることはなかった。しかし、徂徠死後、天下は乱れず、泰平の時代が到来した。
2010-07-14 05:50:52 via web
@yagian: 「東アジアの王権と思想」6「「泰平」と「皇国」」要約:賀茂真淵を初出として、諸外国に対し日本自国を称える「皇国」という用語が使われるようになった。賀茂真淵、本居宣長などの「皇国」意識の成立には、対外危機感ではなく、「泰平」の世への自己満足、誇りが背景にあった。
2010-07-14 05:45:13 via web
@yagian: 続き:日本における儒学は体制と結合せず、地位と生活も多様だったこともあり、学問の内容も多様であった。そして、その多様化は「国学」や「蘭学」などの思想潮流も生み出した。
2010-07-14 05:40:45 via web
@yagian: 続き:儒者の出身階級は、武士、町人、百姓と様々であり、元の身分はあまり意味を持たなかった。儒者には、町で塾を開き生活の糧とする「町儒者」と将軍・大名に仕える「御儒者」があった。「御儒者」であっても、新井白石や横井小楠などを例外として、政治への参与は限定的だった。
2010-07-14 05:38:13 via web
@yagian: 続き:諸芸のなかで、儒学は統治者にとっての修養の教えであり、文官化した武士と適合的だった。18世紀半ば過ぎに藩校などが作られ儒学の教育が行われ、武士階級における身につけるべき素養となった。一方、儒学の専門的な担い手である「儒者」は、武士・町人・百姓の通常の身分の外にあった。
2010-07-14 05:35:26 via web
@yagian: 続き:「北狄」である満州族による清朝が成立してから、正統な中華文明の唯一の体現者との自意識が確立し、朱子学による支配が中国以上に徹底した。徳川時代の日本では、一種類の「教養」が統治を裏付けている体制ではない。その結果、雅俗様々な「芸」や「道」が競い合い、影響しあう状況となった。
2010-07-14 05:31:11 via web
@yagian: 続き:朝鮮でも朱子学を標準学説とする科挙を通じて「両班」による支配が成立していた。中国と異なり「両班」には、世襲的な身分の観念があった。しかし、「両班」階級であっても、科挙及第者が出なければその地位が失われる。その点で、家柄と禄と職が自動的に対応した日本とは異なる。
2010-07-14 05:27:26 via web
@yagian: 続き:儒学的教養が現実の政治体制と密着することにより、教義の信奉が権力・利益の追究の手段となるため、その信条としての活力が人々との心の中で失われやすくなる。俗悪な科挙の学となった朱子学への嫌悪が、考証学の興隆に繋がった。しかし、体制の正統思想である朱子学の否定は難しかった。
2010-07-14 05:24:02 via web
@yagian: 「東アジアの王権と思想」4「儒者・読書人・両班」要約:徳川時代の儒学的「教養」の担い手である「儒者」と同時代の中国の「読書人」、朝鮮の「両班」を比較する。清朝では「読書人」の社会的・政治的支配があった。形式上すべての民に開かれた科挙制度を通じて官僚となり、政治に参与した。
2010-07-14 05:20:22 via web
@yagian: 科挙をしていた中国や朝鮮とは事情が違っていたということのようですね。 RT @akakageseven 江戸幕府はやはり武力で勝ち取った政権だし、政治組織自体が戦への即応体制で作られていたし、官僚も武士だったので思想がそれほど大きな力をもったわけではないでしょうね。
2010-07-14 05:11:25 via web